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大日本国粟散王聖德太子奉讚

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

Ⅱ-0553
大日本國粟散王聖德太子奉讚

(一)
和國の敎主聖德皇
廣大恩德謝しがたし
一心に歸命したてまつり
奉讚不退ならしめよ

(二)
上宮皇子方便し
和國の有情をあわれみて
如來の悲願を弘宣せり
慶喜奉讚せしむべし

(三)
歸命尊重聖德皇
用明天皇の親王のとき
穴太部の皇女の
御はらよりぞ誕生せる

(四)
皇女の御夢にみたまひき
金色の聖僧あらわれて
われよをすくうねがひあり
しばらく御はらにやどるべし

(五)
われこれ救世菩薩なり
いゑ西方にありとしめしてぞ
おどりて御くちにいりたまふ
はらまれいます菩薩也

(六)
敏達天皇あめのした
おさめまします元年の
正月一日に夫人の
みやのうちおぞ御遊せし

Ⅱ-0554(七)
御廐のほとりにいたるほど
おぼえずしてぞ誕生せし
女孺いだいてすみやかに
寢殿にいりたまひけり

(八)
金色のひかり西方より
きたりいりてぞてらしける
御身ははなはだかうばしく
ひかずをふるにもにほひけり

(九)
太子誕生ありしより
よつきののちにめづらしく
よくものがたりしたまひて
みだりになきさけびましまさず

(一〇)
太子の御とし二歲の
二月十五のあしたにぞ
ひむがしにむかひて合掌し
南无佛と再拜す

(一一)
太子六歲の御ときに
百濟國より法師・尼の
經論わたりきたりしに
皇に奏したまひけり

(一二)
六齋日をおしへしむ
この日は梵王・帝釋の
くにのまつりごとをみたまふに
ものゝいのちをころさざれ

Ⅱ-0555(一三)
みかどよろこびましまして
敕宣くにゝくだされて
この日日にはことさらに
ものゝいのちをたすくべし

(一四)
新羅國より佛像を
たてまつれりきその時に
太子奏したまひけり
西國のひじり釋迦牟尼佛

(一五)
日羅上人新羅より
難波の館にぞきたれりし
これをあやしみきこしめし
太子ひそかにみそなわす

(一六)
そのとき日羅ひざまづき
たなごゝろをあわせてぞ
敬禮救世觀音大菩薩
傳燈東方粟散王と禮せしむ

(一七)
日羅おほきにそのみより
しろきひかりをはなちけり
太子そのとき眉間の
ひかりをはなちたまひけり

(一八)
百濟國より彌勒の
石の像をぞわたされき
蘇我の馬子の宿禰は
この像をうけとりたてまつる

Ⅱ-0556(一九)
いゑのひむがしにてらをたつ
尼三人をすゑやしなひき
大臣塔をつくれりき
太子ことに令旨あり

(二〇)
塔は佛舍利のうつわもの
釋迦佛の御舍利ぞ
はからざるにもおのづから
いできたりますことあらむ

(二一)
そのとき齋飯のうえにして
佛舍利一粒えたりけり
瑠璃のつぼにいれたまひ
塔に安置し禮しける

(二二)
太子・大臣ひとつにて
三寶をひろめましましき
このときくにのうちにして
やまうおこりて人しにき

(二三)
弓削の守屋と中臣の
勝海のむらじもろともに
皇に奏してまふさしむ
このくにもとより神をあがむ

(二四)
馬子の大臣佛法を
おこしおこなふこのゆへに
やまふもおこりたみもしぬ
人のいのちはとゞまらじ

Ⅱ-0557(二五)
帝皇御ことにのたまはく
まふすところはあきらけし
佛法をはやくとゞめよと
敕宣くにゝくだされき

(二六)
太子奏せしめましましき
ふたりの人はもろともに
因果のことわりしらぬなり
わざわいさだめてみにあらむ

(二七)
よきことことにおこなへば
さいわいきたるとおもふべし
あしきことをおこなへば
わざわいことにきたるなり

(二八)
ふたりの人はいまさらに
わざわいにあはむと奏せしむ
守屋の連寺をやぶる
佛經・堂塔ほろぼしき

(二九)
やけのこれりし佛像は
難波のほりえにすていれき
三人の尼をばせめうちて
おいいださしむときこへたり

(三〇)
その日そらにはくもなくて
おほきにかぜふきあめふりき
太子かさねて令旨あり
わざわいいまにおこりぬと

Ⅱ-0558(三一)
すなわちかさのやまうおこれりき
やみいたむことやきさくがごとくなり
ふたりの大臣もろともに
おほきにとがをかなしみき

(三二)
帝王ゑことを奏せしむ
このやまうのくるしみいたむこと
たえしのぶべきかたもなし
ねがはくは三寶にいのらむと

(三三)
そのとき敕宣くだされて
三人の尼をめしてこそ
二人の大臣にたまはせて
いのらしめたまひしか

(三四)
そののち寺を建立し
佛法これより興ぜしむ
やまふもとゞまりしづまりて
人民わづらひなかりけり

(三五)
太子の御ちゝ用明皇
くらゐにつきて二年に
朕も三寶に歸依せむと
敕宣ありとぞきこへたる

(三六)
馬子の大臣敕宣に
したがはむと奏してぞ
法師をめして内裏に
いれはじめたまひける

Ⅱ-0559(三七)
太子よろこびましまして
大臣の手をとりてこそ
なみだをながしてのたまはく
三寶のたえなるを人しらず

(三八)
大臣こゝろをよせしめて
うれしくもあるかなと令旨あり
こののちある人ひそかにて
守屋の連につげしめき

(三九)
ひとびとはかりごとをなしてこそ
群兵をまうけよといひければ
これをきゝて阿都のいゑに
こもりて兵士をもとめけり

(四〇)
中臣の勝海の連もろともに
兵士をおこして守屋を
相たすけんとかまへつゝ
天皇を呪咀したてまつる

(四一)
蘇我の大臣はからひて
儲君に奏聞せしめてぞ
守屋をうたむとさだめしに
御かたの軍衆むらがりて

(四二)
守屋の連ことさらに
つわものをおこして城をつき
群兵こわくさかりにて
御かたのいくささわがしく

Ⅱ-0560(四三)
おぢおのゝきてみたびまで
しりぞきかへりしそのときに
令旨をことにくだされて
軍兵こわくさかりなり

(四四)
秦の川勝に命じてぞ
白膠木をとらしめて
四王の像をきざみつゝ
もとゞりにさしほこにさゝぐ

(四五)
願をおこしてのたまはく
わがたゝかひをかたしめよ
四天王を造置して
寺塔をたてむと令旨あり

(四六)
馬子の大臣願じつゝ
御かたのつわものたゝかふに
守屋の連さわがしく
いちゐの木にこそのぼりしか

(四七)
物部の府都の大神の
あらくはなてるやといひて
太子の御あぶみにあたりしに
おそれはさらにましまさず

(四八)
舍人迹見の赤槫にぞ
かさねて敕命くだされて
四天王にいのりつゝ
箭をはなたしめたまへりき

Ⅱ-0561(四九)
守屋がむねにあたりしに
木よりさかさまにおちにけり
御かたのつわものせめゆきて
守屋がかうべをきりてけり

(五〇)
玉造の岸の上に
四天王寺をたてたまふ
佛法これよりさかりなり
王家もいよいよゆたか也

(五一)
太子の御おぢ崇峻皇
この天皇の御宇には
太子の御とし十九歲
かぶりしたまふときこへたり

(五二)
そのとき百濟のつかひにて
阿佐王子きたれりき
太子をおがみてまふさしむ
敬禮救世大慈觀音菩薩

(五三)
妙敎流通東方日本國
四十九歲傳燈演說と禮しけり
儲君そのとき眉間より
しろきひかりをはなたしむ

(五四)
甲斐のくによりたてまつる
あしよつしろき黑駒に
駕してくもにぞいりたまふ
東のかたへぞいましける

Ⅱ-0562(五五)
調使麻呂ばかりこそ
御馬の右にはそえりしか
人人あふぎそらをみる
信濃の國にいたります

(五六)
みこしの坂をめぐりてぞ
三日ありてかへります
日本國のありさまを
さわることなくみそなわす

(五七)
推古天皇のみまえにて
『勝鬘經』を講じましましき
三日講じおはりし夜
そらより蓮華ふりくだる

(五八)
華のながさは二三尺
方三四丈の地にふりみてり
あくるあしたに蓮華を
御かどあやしみみたまひき

(五九)
この地に寺をたてたまふ
橘寺とまふすなり
ふれりし華はこの寺に
いまにおさめおかれたり

(六〇)
小野の妹子の大臣を
敕使としたまひてぞ
衡山におはしてたもてりし
『法華經』をとりにつかわしき

Ⅱ-0563(六一)
妹子におしえの令旨あり
赤縣の南に衡山あり
般若寺といふ寺もあり
くわしくたづねていたるべし

(六二)
むかしの同法しににけむ
いま三人ばかりあり
御經わたさむ敕使とて
吾使ぞとなのるべし

(六三)
妹子敕命にしたがひて
般若寺にぞいたりける
門にひとりの沙彌ありて
みてすなわちにいりにけり

(六四)
しはおひたる僧三人
つゑをついてぞいできたる
思禪師の使とて
よろこびゑみておしえしむ

(六五)
『法華』一部をひとまきに
あはせかゝれる御經を
敕使の妹子におしへしめ
とらせたりとぞ奏しける

(六六)
いかるがの宮の寢殿の
かたわらにいゑをつくりてぞ
夢殿とぞなづけたる
日ごとにみたびおゆあみて

Ⅱ-0564(六七)
いりてあしたにいでたまひ
閻浮提のことをかたります
この内にいりてこそ
諸經の疏をば製し

(六八)
七日七夜いでずして
戸をとぢ御こゑもしたまはず
高麗の惠慈まふさしむ
太子は三昧定にいらしめり

(六九)
おどろかしますことなかれ
八日といふにいでたまひ
玉の枕のうえにこそ
ひとまきの經おはしませ

(七〇)
惠慈法師をめしてこそ
ことをかたりてのたまはく
吾衡山にありしとき
たもちし經はこれなりと

(七一)
すぎにしとしに妹子が
もちてきたりしその經は
弟子たりし僧の持經なり
三人の老僧みなしらず

(七二)
おもふあまりにひかれつゝ
わがたましひをつかわして
とりよせきたる經なりと
太子くわしく命じけり

Ⅱ-0565(七三)
すぎにしとしの經をみて
いまこの經をあわすれば
なき文字ひとつありとみゆ
さきの經にはさらになし

(七四)
いまこの所持の經卷は
きなるかみにてひとまきに
たまの軸にておわします
老僧しらでおしえたり

(七五)
百濟國よりきたれりし
道欣等の十人は
衡山にして『法華經』を
ときたまひしそのときに

(七六)
われらは盧岳の道士とて
ときどきまいりしひとびとと
おのおのなのりまふしてぞ
太子の慈哀をあらわせる

(七七)
妹子の大臣のちのとし
また衡州にわたされき
衡山にまたゆきたるに
老僧ひとりのこりてぞ

(七八)
妹子にかたりおしえける
もとは思禪師とましましき
すぎぬるとしのあきのころ
なんぢがくにの太子は

Ⅱ-0566(七九)
靑龍の車にのりてこそ
五百人をしたがへて
東のかたよりそらをふみ
きたりいますとおしへしむ

(八〇)
むろのうちにいりてこそ
さしはさめる一卷の
御經をとりくもをしのぎ
さりにしとこそかたれりし

(八一)
太子衡山にいりたまふ
そのときしりぬあきらかに
夢殿にいりましましゝ
ほどなりけりといふことを

(八二)
上宮太子の后妃は
かしわでの氏の夫人也
御かたわらにさぶらふに
太子かたりてのたまはく

(八三)
君わがこゝろのごとくにて
ひとつのこともたがはねば
まことにさいわいなりけりと
太子の御意にあひかなふ

(八四)
われしになむその日には
おなじくあなにうづむべし
きさきこたへてまふさしむ
千秋萬歲ふるまでも

Ⅱ-0567(八五)
あしたゆふべにいたるまで
つかへまつらむとぞおもふ
いかなるこゝろいましてか
おわりのことをば令旨ある

(八六)
太子こたへおはします
はじめあればおわりある
さだまれるよのことおりを
ゆめゆめおどろきおもわざれ

(八七)
ひとたびはかならずむまれしめ
ひとたびはかならずしぬること
ひとのつねのみちなれば
むかしもいまもたえぬ也

(八八)
われあまたのみをうけて
佛道をおこなひきたらしむ
わづかに小國の太子として
たえなるみのりを流布せしむ

(八九)
法なきところに一乘の
深義をひろめときをきつ
五濁のあしきよよまでに
ひさしくあそばむとおもわれず

(九〇)
きさきなみだをながしてぞ
かなしみあわれみましまして
太子難波よりしてぞ
いかるがの宮にかへります

Ⅱ-0568(九一)
かたをかやまのほとりにて
うへたるひとふしたりき
くろこまあゆまずとゞまれり
太子むまよりおりてこそ

(九二)
うゑ人ふしたるそのうへに
むらさきのうへの御衣を
とひておほいましまして
御歌をたまひてのたまはく

(九三)
うゑ人かしらをもちあげて
御かへりごとをぞたてまつる
あわれかなしき御ことかな
奉讚まことにつきがたし

(九四)
太子みやにかへります
のちにうえ人しにおわる
太子かなしみましまして
はぶりおさめおわします

(九五)
うゑ人しにてそののちに
むらさきの御衣をとりよせて
もとのごとくに皇太子
著服してぞおはします

(九六)
大臣已下七人の
そしりあやしむことしげし
敕命をくだしましまして
ゆきて片岳をみるべしと

Ⅱ-0569(九七)
臣下ゆきてみるにかばねなし
ひつぎはなはだかうばしく
みなひとおどろきあやしみき
まことにあだの人ならず

(九八)
太子みやにましまして
きさきにかたらひおはします
おゆあみみぐしをあらわせて
きよき御衣をぞきたまひし

(九九)
われもろともにこよひは
さりなんとゆかをならべてぞ
ふしたまひぬとみえたまふ
あくるあしたにひさしくも

(一〇〇)
御おとまさずあやしくも
御殿のみとをひらきてぞ
人々あまたまいりしに
きさきもともにかくれます

(一〇一)
御かほはもとのごとくにて
はなはだかうばしくおわします
御としは四十九歲なり
佛法のともしびきえたまふ

(一〇二)
くろこまいなゝきよばいけり
くさ・みづくわずかなしみて
御こしにしたがひまいりてぞ
御廟にいたりつきにけり

Ⅱ-0570(一〇三)
ひとたびいなゝきよばわりて
たうれしぬとぞみゑたりし
そのかばねをばすなわちに
御廟のかたにうづまれき

(一〇四)
太子崩御のその日にぞ
衡山よりの御經は
にわかにうせましましぬ
戀慕渴仰つきがたし

(一〇五)
妹子がもちてわたれりし
經ばかりこそいますなれ
まことに不思議のおほきこと
奉讚きわなくあわれ也

(一〇六)
新羅國よりたてまつる
釋迦牟尼佛の尊像は
やましな寺の東の
精舍にいまにおわします

(一〇七)
百濟國よりたてまつる
石の彌勒菩薩は
ふるきみやこの元興寺の
東の精舍におわします

(一〇八)
太子のつくりおわします
御寺はそのかずあまたあり
四天王寺・法隆寺
中宮寺・橘寺

(一〇九)
蜂岡寺・池後寺
葛城寺・日向寺なり
このほか御てらきこゆれど
傳記・縁記をひらくべし

(一一〇)
太子の御名はあまたいます
廐戸・豐聽耳の皇子なり
御誕生のところゆへ
廐戸ともにあらわせり

(一一一)
十人一度にまふすこと
ひとりももらさずきこしめす
ことわりいますによりてこそ
とよきゝみゝとはまふしけり

(一一二)
皇太子の御誕生
御ありさまをたづぬれば
僧の威儀にていますゆえ
聖德太子とまふしけり

(一一三)
『勝鬘』・『法華經』等の
義疏をつくりひろめしめ
有情をわたしたまふゆへ
聖德太子とまふすなり

(一一四)
王宮のみなみにすましめて
儲君とあがめましましき
まつりごとをまかせて
上宮太子とまふしける

Ⅱ-0572已上一百一十四首

日本記、平氏傳聖德太子御傳、上宮記、諾樂古京藥師寺沙門景戒撰日本國現報善惡靈異記等見也。三寶流布讚略云、日本國、始人更无、葦二筋生立。神成代知。自是豐葦原水穗國名。神代七代第四、日天下神成。依此吾國名日本。人世百王定。神武天皇始卽位元年辛酉歲、釋迦滅後數二百五十年成。