善導大師は、教我も思惟も定善とみられた。
宗祖は「教我思惟」を方便とみられた。
「思惟」という言葉の中に私の計らいに依って如来浄土を感得しようとするものがある。そういう風に感得せられた浄土というのは当然方便位の化土に過ぎないという思し召しか。