開会
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西山派の派組である証空上人はこの開会の思想によって『観経』を解釈された。 梯實圓和上は、
なお証空上人は、『観経』諸説の定散二善を諸行往生を説くものと見るのは自力行門の見方であって、未熟の機を誘引する権化方便の法門であるといい、仏の真意は定散二善は弘願念仏を詮顕する他力法門として説かれているとみていかれる。このような「観門の意」を領解したのが三心であるから、三心と観門を領解して弘願に帰し、定散即南無阿弥陀仏と心開け、開会が現成している相であった。こうして自力の機執の前には自力の行とか見えなかった諸行も、三心の領解が開けてみれば、すべてが弘願念仏であって、捨てるべきものは何者もない。捨てるべきものは自力心だけであって、行はそのまま念仏として生きていくわけである。行観が『選択集秘鈔』二に、山法師が証空上人の諸行開会を評して、「師の法然房は諸行の頚を切る、弟子の善恵房は諸行を生け取りにす」と称したといっているのはその故である。
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