卑湿の淤泥…
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ずから転送)ひしつ/ひしゅう のおでい
湿地の泥沼に蓮の花が咲くように衆生の煩悩の泥の中に如来回向の信心が生ずることを喩えたもの。(証巻 P.319, 二門 P.549、論註 P.137)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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高原陸地 不生蓮華 卑濕淤泥 乃生此華 (『大正蔵』十四、五四九頁)
- 『維摩詰所説經』仏道品第八
於是維摩詰問文殊師利。何等爲如來種。
- ここに於いて維摩詰、文殊師利に問ふ。「なんらをか如来の種となす。」
文殊師利言。有身爲種。無明有愛爲種。貪恚癡爲種。四顛倒爲種。五蓋爲種。六入爲種。 七識處爲種。八邪法爲種。九惱處爲種。十不善道爲種。以要言之。六十二見及一切煩惱皆是佛種。
- 文殊師利の言く、「有身を種となし。無明・有愛を種となし。貪・恚・痴を種となし。四顛倒を種となし。五蓋を種となし。六入を種となし。七識処を種となし。八邪法を種となし。九悩処を種となし。十不善道を種となす。要をもってこれを言はば、六十二見、および一切煩悩、みなこれ仏種なり。」[1]
曰何謂也。
- いわく「何の謂(いい)ぞや。」
答曰。若見無爲入正位者。不能復發阿耨多羅三藐三菩提心。
- 答えて曰く、「もし無為を見て正位に入る者は、また阿耨多羅三藐三菩提心を発すこと能わず。
譬如高原陸地不生蓮華 卑濕淤泥乃生此華。
- 譬えば、高原の陸地には蓮華は生ぜず、
卑湿 の汚泥にいましこの〔蓮〕華を生ずるが如し。[2]
如是見無爲法 入正位者。終不復能生於佛法。煩惱泥中乃有衆生 起佛法耳。
- かくの如く無為の法を見て、正位に入る者は、ついにまたよく仏法を生ぜず。煩悩の泥中に、すなわち衆生ありて仏法を起こすのみ。
又如殖種於空 終不得生。糞壤之地乃能滋茂。
- また、種を空に植えれば、ついに生ずることを得ず。糞壌(ふん-じょう)[3]の地に、すなわちよく滋茂するが如し。
如是入無爲正位者不生佛法。起於我見如須彌山。猶能發于阿耨多羅三藐三菩提心 生佛法矣。
- かくの如く、無為の正位に入る者は仏法を生ぜず、我見を起こすこと須弥山の如くなるものは、なおよく阿耨多羅三藐三菩提心を発して、仏法を生ず。[4]
是故當知 一切煩惱爲如來種。
- この故にまさに知るべし、一切の煩悩を如来の種となすことを。[5]
譬如不下巨海不能得無價寶珠。如是不入煩惱大海。則不能得一切智寶。
- 譬えば巨海に下らざれば、よく
無値 [6]の宝珠を得ることあたわざるが如し。かくのごとく煩悩の大海に入らざれば、すなわち一切智の宝を得ることあたわず。」
- ↑ いわゆる煩悩を滅却してさとりを目指す小乗の教えと違い、大乗仏教では煩悩に喘いでいる衆生こそ仏種であるとする。
- ↑ 『論註』(論註 P.137)で、『経』(維摩経)に、「〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなはち蓮華を生ず〉とのたまへり。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆してつねに絶えざらしむ。」 とある。御開山はこの文を「証文類」(証巻 P.319)で引文され、還相の菩薩の自在摂化を釈しておられる。『入出二門偈』(二門 P.549)では「卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり。これは如来の本弘誓不可思議力を示す。すなはちこれ入出二門を他力と名づくとのたまへり。」と、本願によって信心をたまわることとされておられる。
- ↑ 糞壌(ふん-じょう)。糞や落ち葉などで作った堆肥の意。
- ↑ 『安楽集』p.208に、「仏、阿難に告げたまはく、〈一切の衆生もし我見を起すこと須弥山のごとくならんも、われ懼れざるところなり。 なにをもつてのゆゑに。 この人はいまだすなはち出離を得ずといへども、つねに因果を壊せず、果報を失はざるがゆゑなり。 もし空見を起すこと芥子のごとくなるも、われすなはち許さず。 なにをもつてのゆゑに。 この見は因果を破り喪ひて多く悪道に堕す。 未来の生処かならずわが化に背く〉」とある。いわゆる空見という空にとらわれる誤った見解に陥って、菩薩のように利他行を出来ないことを戒める。
- ↑ 煩悩というエネルギーを、ただ滅し 去るのではなく、その意味と方向を転じて菩提へ向けるのが大乗仏教である。
- ↑ 無値(むげ)。値(あたい)のつけられないほど貴重なこと。