定善
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
じょうぜん
散善に対する語。雑念を払い心を凝らして如来、浄土を観察する行のこと。→散善(さんぜん)。 (御消息 P.735)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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定善 じょうぜん
散善に対する語。心を一つの対象に集中し、雑念を払い心を凝らして仏・浄土などを観察する行のこと。「玄義分」には
- 「定はすなはち慮(おもんぱ)りを息(や)めてもつて心を凝(こ)らす(定即息慮以凝心)」 (化身土巻引文・注 383) とある。→十六観(浄土真宗辞典)
- →散善
◆ 参照読み込み (transclusion) ノート:十三観
『観無量寿経』に説かれる,阿弥陀仏の身や浄土のありさまを思い浮べる十三種の観法。これを定善という。
- 日想観 (太陽が沈むのを見て極楽が西にあることを観ずること。)
- 水観 (水と氷の清らかさによって極楽の大地のありさまを観ずること。)
- 地観 (極楽の大地をまざまざに観ずること。)
- 宝樹観 (極楽の不思議な樹木の働きを観ずること。)
- 宝池観 (極楽の池の水を観ずること。)
- 宝楼観 (極楽にある多数の建物を観ずること。)
- 華座観 (阿弥陀仏の台座である蓮華を観ずること。)
- 像観 (仏像を置き阿弥陀仏の姿を観ずること。)
- 真身観 (阿弥陀仏の真実の姿を観ずること。)
- 観音観 (阿弥陀仏に従う菩薩のうち観世音を観ずること。)
- 勢至観 (大勢至菩薩を観ずること。)
- 普観 (あまねく浄土の仏、菩薩、国土を観ずること。)
- 雑観 (阿弥陀仏の身相を観じて、それによって他のさまざまな姿を交えて観ずること。)