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御裁断申明書

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 本書は、『御裁断御書』とほとんど同時(日付は1日前)に出されたものであるが、両者の関係は定かではない。超然師の『反正紀略』には『御裁断書』として『申明書』の文を挙げ、『御裁断写』として『御書』の文を挙げている。

 内容は『御裁断御書』とほとんど同じであるが、三業派の異解が、「たのむ一念」の語に対する誤った理解にもとづくことを明らかにし、信心のすがたとして二種深信を引いて願力にまかせきる心であることが詳しく説示されている。また、誤りと知って誤るものはないので、明師の指南によるべきことを説くなど、懇切丁寧な教示となっている。

御裁断申明書

   御裁断申明書

【1】 そもそも当流安心の一義といふは、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」(大経・下)をもつて他力安心の依憑とはするなり。このことわりをやすく知らしめんがために、中興上人(蓮如)はさしよせて、「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが一大事の後生御たすけ候へとたのめ」とは教へたまへり。よりて、「弥陀をたのむものは決定往生し、たのまぬものは往生不定なり」と、前々住上人(法如)も仰せられたり。また前住上人(文如)も、「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解なきこと」をふかく誡めたまへり。この一念といふは、宿善開発の機、その名号を聞持する時なり。このたのむ一念の信心なくは、今度の報土往生はかなふべからずと相承しはべりき。

【2】 しかるに近来門葉のなかに、このたのむ一念につきて三業の儀則を穿鑿しあるいは記憶の有無を沙汰し、ことに凡夫の妄心をおさへて金剛心と募り、あるいは自然の名をかり義解などいふ珍しき名目を立て、種々妄説をなして道俗を惑はしむること、言語道断あさましき次第ならずや。これ予が教示の遍からざるところにして、不徳のしからしむるにやと、朝に夕に寝食を忘れてふかく心をいたましむるところなり。おのおのいかが心得られ候ふや。

【3】 上に示すがごとく、弥陀をたのむといふは、他力の信心をやすく知らしめたまふ教示なるがゆゑに、たすけたまへといふは、ただこれ大悲の勅命に信順する心なり。されば善導は、「深く機を信じ、深く法を信ぜよ」(散善義・意)と教へたまへり。まづわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべき方もなき身なりと知るを、ふかく機を信ずるとはいふなり。またかかるいたづらものをあはれみましまして、願も行も仏体に成就してすくはんと誓ひたまへる御すがた、すなはち阿弥陀如来なりとおもひて、わが往生を願力にまかせたてまつる心の少しも疑なきを、法を信ずるとはいふなり。さればいたづらに信じ、いたづらにたのむにはあらず。雑行雑修自力をすてて、二心なく信ずるが、すなはちたのむなるがゆゑに、その心を顕してたすけたまへと弥陀をたのめとは教へたまふなりき。さらに凡夫不成の迷情を思ひかたむる一念を、往生の正因と教へたまへるにはあらずと知るべし。この義は別紙にも述べ候へども、なほ惑ひのとけざらん輩もあるらめと、重ねて筆を染むるものなり。かまへて末学の書鈔等によりて、一流真実の義をとり惑ふべからず。

【4】 されば事に大小あり、業に緩急あり。いま示すところは当流の肝要、われ人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれよりおもきはあらざるべし。もしなほ我執を募りて、あやまちをあらためずは、永き世、開山聖人(親鸞)の御門徒たるべからざるものなり。こひ願はくは、心得惑ひたる人人、今日より後はいよいよ妄情をひるがへして、相承の正義にもとづかるべきことこそ肝要に候へ。古語にも「知其愚非大愚也 知其惑非大惑也」(荘子)といへり。さればみづから惑ふと知りて惑ふものあらじ、惑ふは惑ひを知らざるがゆゑなり。かかる人は明者の指南にあらずは、たれかその惑ひをとかんや。このむねよくよく分別あるべく候ふ。「一息不追千載長往」(摩訶止観)〔の〕ならひなれば、急ぎて信心決得あるべく候ふ。

【5】 さて信心決定のうへには、行住座臥に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と仏恩を報謝したてまつり、王法・国法に違戻なく、仁義の道をあひ嗜み、如法に法義相続ありて、今度の往生を待ちうるばかりの身となられ候はば、予が本懐これにすぐべからず候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。

 [文化三丙寅稔十一月五日]

  [龍谷第十九世釈本如](花押)