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称揚・咨嗟

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

しょうよう・ししゃ

 讃嘆の意で、ほめたたえること。(行巻 P.141)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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出拠である十七願を窺うに、

 たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。

と、菩薩や声聞・縁覚、まして凡夫ではなく、諸仏に名を称えさせ讃嘆させようという願である。大経の五徳瑞現下、で阿難が「去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまふ。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。なにがゆゑぞ、威神光々たることいまし、しかるや」と、問われたように「仏々相念とは、仏のさとりの境界は仏と仏のみがあい知ろしめすものである。
そのさとりの境界にいます仏の仏徳を讃嘆するには、その徳を知るもののみが讃嘆できるのであるが、はたして迷いの境界にいる凡夫が真に仏徳を讃嘆出来ることなどあり得るのであろうか。 親鸞聖人は「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」と、凡夫の口先に称えられる「なんまんだぶつ」を、大行であるとお示しである。仏の作す仏の行(仏作仏行)であるから大行といいうのである。

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