「乃至」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | なお、「すなわち」と訓ずる漢字には、「即」や「則」や「便」などがあり、Aを受けてBとの接続関係を示す語である。 | ||
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+ | *'''即''' AすなわちBであるような、必然的で密接な関係の場合は即を用いる。次の則より強い接続になる。即時と熟す場合など。この即に関しては、第十八願成就文の「即得往生」の即を解釈するばあいに異時即か同時即かの論義がある。大谷派の莫迦坊主どもは往生の一文に両義があることを理解できないので、往生の語を現生のみにとるので困ったものではある。四十八願中の第三願に悉皆金色の願があるのだが、お前ら金色かよと法然聖人の使われた論法で突っ込まれたら困るかも。 | ||
+ | *'''則''' AであるならばBというように、Bの結論を出すためにAとBが密接な関係で接続する場合は、則ちを用いる。法則とか規則と熟す。 | ||
+ | *'''便''' AはたやすくBであるというような即よりも弱い接続関係を示す。なお、親鸞聖人は『観経』の即便往生の語を即と便に分けて、即の語は『無量寿経』による第十八願の信一発の「即往生」とし、便の語は『観経』で説かれる不本意の「便往生」の第十九願をあらわす語であるとみられた。 | ||
+ | *'''乃''' Aと、そこで一時がおわり、そしてBというような緩い接続関係を表現する場合に用いる。親鸞聖人は乃至の語を「一多包容」(「行巻」乃下釈)とか「兼上下略」(『浄土文類聚鈔』)と釈しておられる。要するに、「ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」ということである。 | ||
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2013年3月14日 (木) 22:54時点における版
ないし
- 1.中間を省略することを示す語。「…から…まで」という意。数の多少、時間の長短を兼ねおさめることを表す。
- 2.最少限度を示す語。下至に同じ。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
「乃」は「すなわち」とも読むので、「すなわち一念に至るまで」と読む。(お、なんじ、すなわ-ち、のり、おさむ、あるいは、などとも読む)。
なお、「すなわち」と訓ずる漢字には、「即」や「則」や「便」などがあり、Aを受けてBとの接続関係を示す語である。
- 即 AすなわちBであるような、必然的で密接な関係の場合は即を用いる。次の則より強い接続になる。即時と熟す場合など。この即に関しては、第十八願成就文の「即得往生」の即を解釈するばあいに異時即か同時即かの論義がある。大谷派の莫迦坊主どもは往生の一文に両義があることを理解できないので、往生の語を現生のみにとるので困ったものではある。四十八願中の第三願に悉皆金色の願があるのだが、お前ら金色かよと法然聖人の使われた論法で突っ込まれたら困るかも。
- 則 AであるならばBというように、Bの結論を出すためにAとBが密接な関係で接続する場合は、則ちを用いる。法則とか規則と熟す。
- 便 AはたやすくBであるというような即よりも弱い接続関係を示す。なお、親鸞聖人は『観経』の即便往生の語を即と便に分けて、即の語は『無量寿経』による第十八願の信一発の「即往生」とし、便の語は『観経』で説かれる不本意の「便往生」の第十九願をあらわす語であるとみられた。
- 乃 Aと、そこで一時がおわり、そしてBというような緩い接続関係を表現する場合に用いる。親鸞聖人は乃至の語を「一多包容」(「行巻」乃下釈)とか「兼上下略」(『浄土文類聚鈔』)と釈しておられる。要するに、「ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」ということである。