「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | + | この文は、なんまんだぶを称えて浄土へ往生し、仏のさとりを開くことを目指す浄土教を誹謗中傷する輩に、なんまんだぶを称える行をそしってはいけません。もし、そしる者がいるなら、その人は生死流転の世界を流転し続けて、[[微塵劫]]を経ても苦悩の闇から出ることは出来ません、と戒めたものである。法然聖人はじめ門弟の間では、なんまんだぶを誹謗中傷する輩に、なんまんだぶの法をそしるとこのような報いがありますとよく依用された文である。 | |
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+ | とされるのも、その意であろう。御開山は、念仏をさまたげるのは世の常である。しかし、それよって、なんまんだぶを称えることを止めれば、念仏をさまたげた者は、その報いによって流転輪廻することになるから、なんまんだぶを称えることを止めてはいけませんともお示しであった。[[親鸞聖人御消息#P--787|(*)]] | ||
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+ | 阿弥陀仏の選択本願の南無阿弥陀仏は救いの「法」であり、この阿弥陀如来の成就された法を、口に、なんまんだぶと受け容れることが[[信知]]であり本願力回向のご信心であった。南無阿弥陀仏は救済の'''法'''であり'''教'''であり'''行'''であるのだが、近代の知の毒に侵された者には理解不能なのであろう。<br> | ||
+ | その知におかされた代表が浄土真宗の坊さんというのは、まさにアイロニー以外の何物でもないと思っていたりする。浄土真宗のお寺で、なんまんだぶの声を聞くことが少なくなったのは坊さんの不作為という謗法であるやも知れぬと思ふ。 | ||
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2016年10月30日 (日) 22:25時点における版
ごじょくぞうじたぎほう どうぞくそうけんふようもん けんうしゅぎょうしゃきしんどく ほうべんはえきょうしょうおん
「五濁増の時は多く疑謗し、道俗あひ嫌ひて聞くことを用いず。修行することあるを見ては瞋毒を起こし、方便破壊して競ひて怨を生ず」 (消息 P.787)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
善導大師の『阿弥陀経』の注釈書である『法事讃』にある文。『阿弥陀経』がまさに終わらんとするとき、釈尊が娑婆国土の五濁悪世の中で一切世間難信の法(なんまんだぶ)を説かれたことに由来する。
- 世尊説法時将了 慇懃付嘱弥陀名
- 五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞
- 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨
- 如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
- 超過大地微塵劫 未可得離三途身
- 大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁
〔読み下し〕
世尊法を説きたまふこと、時まさに 了(おわ)りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は多く疑謗し、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行(なんまんだぶ)することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教(本願の教え)を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ。『法事讃』p.576
この文は、なんまんだぶを称えて浄土へ往生し、仏のさとりを開くことを目指す浄土教を誹謗中傷する輩に、なんまんだぶを称える行をそしってはいけません。もし、そしる者がいるなら、その人は生死流転の世界を流転し続けて、微塵劫を経ても苦悩の闇から出ることは出来ません、と戒めたものである。法然聖人はじめ門弟の間では、なんまんだぶを誹謗中傷する輩に、なんまんだぶの法をそしるとこのような報いがありますとよく依用された文である。
御開山が『正像末和讃」で、
(13)
- 五濁の時機いたりては
- 道俗ともにあらそひて
- 念仏信ずるひとをみて
- 疑謗破滅さかりなり
(14)
- 菩提をうまじきひとはみな
- 専修念仏にあだをなす
- 頓教毀滅のしるしには
- 生死の大海きはもなし
とされるのも、その意であろう。御開山は、念仏をさまたげるのは世の常である。しかし、それよって、なんまんだぶを称えることを止めれば、念仏をさまたげた者は、その報いによって流転輪廻することになるから、なんまんだぶを称えることを止めてはいけませんともお示しであった。(*)
阿弥陀仏の選択本願の南無阿弥陀仏は救いの「法」であり、この阿弥陀如来の成就された法を、口に、なんまんだぶと受け容れることが信知であり本願力回向のご信心であった。南無阿弥陀仏は救済の法であり教であり行であるのだが、近代の知の毒に侵された者には理解不能なのであろう。
その知におかされた代表が浄土真宗の坊さんというのは、まさにアイロニー以外の何物でもないと思っていたりする。浄土真宗のお寺で、なんまんだぶの声を聞くことが少なくなったのは坊さんの不作為という謗法であるやも知れぬと思ふ。
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