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「諸智土」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:是故博聞諸智士 応信我教如実言
 
:是故博聞諸智士 応信我教如実言
 
::如来の勝智は虚空に遍し、所説の義言は唯仏のみ悟りたまへり。
 
::如来の勝智は虚空に遍し、所説の義言は唯仏のみ悟りたまへり。
::是の故に博く聞ける<kana>諸智士(しょち-し)</kana>は、応に我が教如実の言を信ずべし。
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::是の故に博く聞ける<kana>諸智士(しょち-し)</kana>は、<kana>応(まさ)</kana>に我が教如実の言を信ずべし。[[無量壽如來會#.E4.BF.A1.E5.B7.BB.E5.BC.95.E6.96.87.288.29|(*)]]
  
 
;御開山の訓:
 
;御開山の訓:
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:是故博聞諸智土 応信我教如実言。
 
:是故博聞諸智土 応信我教如実言。
 
::如来の勝智、遍虚空の所説の義言は、ただ仏のみ悟りたまへり。
 
::如来の勝智、遍虚空の所説の義言は、ただ仏のみ悟りたまへり。
::このゆゑに博く<kana>諸智土(しょち-ど)></kana>を聞きて、わが教、如実の言を信ずべし。
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::このゆゑに博く<kana>諸智土(しょち-ど)></kana>を聞きて、わが教、如実の言を信ずべし。([[信巻本#P--214|信巻 P.214]])
現行の『如来会』では「諸智<kana>士(し)</kana>」となっていて、諸々の菩薩(智士)の意であるが、御開山の所覧本が「諸智<kana>土(ど)</kana>」になっていたので、このように読まれたのであろう。この場合の諸智は、『如来会』で説く、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智の意であり、浄土は如来の智慧の世界である「諸智・士」であると見られた。この如来の智慧の浄土を疑い、自らの自力の善根によって往生しようとすることを、以下の『如来会』の文を引いて「みづからの善根において信を生ずることあたはず」とされたのである。
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現行の『如来会』では「諸智<kana>士(し)</kana>」となっていて、諸々の菩薩(智士)の意であるが、御開山の所覧本が「諸智<kana>土(ど)</kana>」になっていたので、このように「諸智・土」読まれたのであろう。この場合の諸智とは、『如来会』で説く、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智の意であり、浄土は如来の智慧の世界である「諸智の土」であると見られた。この如来の智慧によって荘厳された浄土を疑い、自らの自力の善根によって往生しようとすることを、以下の『如来会』の文を引いて「みづからの善根において信を生ずることあたはず」とされたのである。
:もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。([[信巻本#P--214|信巻 P.214 で引文]])
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:もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・[[普遍智]]・不思議智・[[無等智]]・[[威徳智]]・[[広大智]]を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。([[化巻本#P--379|化巻 P.379]] で引文)
  
『誡疑讃』[[正像末和讃#no71|(*)]]で、<br />
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このように、善悪平等の救いを誓われている仏智の不思議の領域を疑い、自力の善根を積集することを『誡疑讃』では、<br />
  
 
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: 胎生のものは智慧もなし
 
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: 牢獄にいるとたとへたり [[正像末和讃#no71|(*)]]
 
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:七宝の宮殿にうまれては
 
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: 五百歳のとしをへて
 
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: 三宝を見聞せざるゆゑ
 
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: 有情利益はさらになし [[正像末和讃#no72|(*)]]
などと、仏の智慧を疑い、自因自果の[[トーク:罪福|信罪福心]](自業自得の因果のみを信じ、善悪を超えた阿弥陀仏の本願力の救いを信じないこと)を誡められておられる所以である。「仏智うたがふつみふかし」であった。
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などと誡めておられる。仏の智慧を疑い、自因自果の[[トーク:罪福|信罪福心]](自業自得の因果のみを信じ、善悪を超えた阿弥陀仏の本願力の救いを信じないこと)を誡められておられる所以である。まさに「仏智うたがふつみふかし」であった。
  
 
参照→[[無量光明土]]
 
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2017年4月18日 (火) 13:11時点における版

しょちど

  阿弥陀仏の真実報土(ほうど)。高麗版大蔵経等は「諸智士」となっている。この場合は諸菩薩を意味する。(信巻 P.214, 真巻 P.372, 愚禿上 P.514)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『如来会』の文:
如来勝智遍虚空 所説義言唯仏悟
是故博聞諸智士 応信我教如実言
如来の勝智は虚空に遍し、所説の義言は唯仏のみ悟りたまへり。
是の故に博く聞ける諸智士(しょち-し)は、(まさ)に我が教如実の言を信ずべし。(*)
御開山の訓:
如来勝智徧虚空 所説義言唯仏悟。
是故博聞諸智土 応信我教如実言。
如来の勝智、遍虚空の所説の義言は、ただ仏のみ悟りたまへり。
このゆゑに博く諸智土(しょち-ど)を聞きて、わが教、如実の言を信ずべし。(信巻 P.214)

現行の『如来会』では「諸智()」となっていて、諸々の菩薩(智士)の意であるが、御開山の所覧本が「諸智()」になっていたので、このように「諸智・土」読まれたのであろう。この場合の諸智とは、『如来会』で説く、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智の意であり、浄土は如来の智慧の世界である「諸智の土」であると見られた。この如来の智慧によって荘厳された浄土を疑い、自らの自力の善根によって往生しようとすることを、以下の『如来会』の文を引いて「みづからの善根において信を生ずることあたはず」とされたのである。

もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智威徳智広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。(化巻 P.379 で引文)

このように、善悪平等の救いを誓われている仏智の不思議の領域を疑い、自力の善根を積集することを『誡疑讃』では、

(71)

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり (*)

(72)

七宝の宮殿にうまれては
 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ
 有情利益はさらになし (*)

などと誡めておられる。仏の智慧を疑い、自因自果の信罪福心(自業自得の因果のみを信じ、善悪を超えた阿弥陀仏の本願力の救いを信じないこと)を誡められておられる所以である。まさに「仏智うたがふつみふかし」であった。

参照→無量光明土