「教信沙弥」の版間の差分
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2017年8月21日 (月) 00:43時点における版
きょうしんしゃみ
平安初期の在俗の念仏聖。妻帯して播磨賀古(現在の兵庫県加古川市)の草庵に住した。
髪を剃らず、袈裟(けさ)、法衣を着ず、里人に雇われて田畑を耕作し、旅人の荷を運んで生活の資を得たという。常に阿弥陀仏の名号(なんまんだぶ)を称えて往生を願い、人々にも念仏を勧めたので、阿弥陀丸と呼ばれたと伝えられる。 『改邪鈔』第3条によれば、親鸞聖人は敬信の行状を範とし敬仰された。(改邪鈔 P.921)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- インクルード ノート
教信沙弥の逸話は、慶滋保胤編纂の『日本往生極楽記』の勝尾寺の「住僧勝如」の項が初出である。『日本往生極楽記』慶滋保胤 編纂
永観師の『往生拾因』から沙弥教信関連部分を抜書きして、下記に読み下した。乞う校正。
又為散乱人観法難成。大聖悲憐勧称名行。称名易故 相続自念昼夜不休。豈非無間乎。又不簡身浄不浄。不論心専不専。称名不絶必得往生。運心日久引接何疑。又恒所作是定業故。依之但念仏者往生浄土其証非一。
- また散乱の人の観法成じ難きが為に、大聖悲憐して称名の行を勧めたまふ。称名は易きが故に相続し自念して昼夜に休まず、豈(あ)に無間に非ずや。また身の浄・不浄を簡ばず、心の専・不専を論ぜず、称名絶えざれば必ず往生を得るなり。運心、日久しくば何ぞ引接を疑わん。また恒(つね)の所作は是れ定業なるがゆえに、これに依つてただ念仏者、浄土に往生す、その証一にあらず。
如彼播州 沙弥教信等之其仁也。
- かの播州の沙弥教信等これその仁(ひと)なり。
本朝孝謙天皇御宇。摂津国 郡摂使 左衛門府生 時原佐通妻者。出羽国総大判官代 藤原栄家女也。
- 本朝孝謙天皇の御宇。摂津の国の郡摂使 左衛門の府生時原の佐通の妻は、出羽の国の総大判官代 藤原栄家が女(むすめ)なり。
然而年来歎無子息。毎月十五日沐浴潔斎。往詣寺塔 祈乞男子。経三箇年既以懐妊。天応元年{辛酉}四月五日平産男子。而児已及七歳母不事家業。有愁嘆色。
- 然るに年来、子息無きことを歎きて、毎月十五日に沐浴潔斎し、寺塔に往詣して男子を祈乞す。三箇年をへて既に以つて懐妊す。天応元年(781年){辛酉}四月五日男子を平産す。しかるに児すでに七歳に及びて、母家業を事とせず。愁嘆の色あり。
夫奇問云。仁何有不例気色乎。
妻答云。生子漸以成長。至于今者 欲 為尼 偏念仏。然而順夫之身思徒送日。
- 夫、奇(あや)み問いて云く。仁(なんじ)何んぞ不例の気色あるや。
- 妻、答えて云く。生子、漸(よう)やく以つて成長せり。今に至りては、尼の為とて偏に念仏せんと欲す。然れども夫に順ふの身と思いながら徒(いたずら)に日を送れりと。
夫聞是語云。仁所思尤然。我同剃髪共可念仏。於児童者談付他人。児耳聞之。瞻面浮涙。自此以後已止遊戯。
- 夫、是の語を聞きて云く。仁(なんじ)が思ふところ尤も然なり。我も同く髪を剃りて共に念仏すべし。児童においては他人に談(かたら)い付けん。児これを耳に聞きて、面をあおぎみて涙を浮ぶ。此れより以後已に遊戯を止む。
明朝乞食僧立於門外。家女悦以請入供養即乞出家。 僧云。未至衰老。不臨病患。今求出家。是為最上之善根。
- 明朝乞食の僧、門外に立てり。家女悦びて以つて請じ入れ供養して即ち出家を乞ふ。僧の云く。未だ衰老にも至らず、病患にも臨(のぞ)まず、今出家を求むるは、是れ最上の善根なり。
聞此弥以喜悦。夫妻共剃頭。時年夫四十一 妻三十三也。次七歳童子同乞出家。共受戒了。修行僧留住教経典勧念仏。
- 此れを聞きて弥(いよいよ)以つて喜悦す。夫妻共頭を剃る。時に年夫四十一 妻三十三なり。次に七歳の童子、同じく出家を乞ふ。共に受戒しおわんぬ。修行の僧、留住して経典を教え念仏を勧む。
小僧名注勝如。教『阿弥陀経』並不軽作法。如此三箇年。其後件僧不知行方矣。
- 小僧の名を勝如と注(しる)す。『阿弥陀経』並びに不軽の作法を教ふ、此のごとくすること三箇年。其の後、件(くだん)の僧、行き方を知らざるなり。
延暦十四年{乙亥}二月十八日朝。入道与尼共同沐浴読経念仏。至于夜半両人命終焉。時家中男女不知之。勝如於傍 打金鼓唱仏号。近隣聞驚問訊之。
又一周忌了 勝如修不軽行。已得礼拝十六万七千六百余家。以此慧業迴向二親。不軽之間 毎臨門門香気自熏。見聞道俗皆以奇之。
- 延暦十四年{乙亥}二月十八日の朝。入道、尼と共に同じく沐浴して読経念仏して、夜半に至りて両人命終す。その時に家中の男女これを知らず。勝如傍において金鼓を打ちて仏号を唱ふ。近隣聞き驚きてこれを問訊する。
- また一周忌おわりて、勝如、不軽の行を修す。すでに十六万七千六百余家を礼拝することを得たり。この慧業をもって二親に迴向す。不軽の間、門門に臨むごとに香気自熏す。見聞の道俗、皆これを以つて奇とす。
其後登勝尾寺。証(道)上人為師。学顕密正教。已経七箇年。遂卜寂寞地。別結構草菴。修念仏定五十余年。味道忘疲五日一飯。禁断言語十二箇年。同行弟子相見尤希。
- その後、勝尾寺に登りて、証道上人を師となして、顕密の正教を学す。すでに七箇年をへて、遂に寂寞の地を卜(ぼく)し、別に草菴を結構し念仏定を修すること五十余年、道を味わい疲れを忘れて五日に一たび飯す。言語を禁断すること十二箇年、同行弟子相見することもっとも希なり。
于時貞観八年八月十五夜空聞音楽。奇思之間人叩柴戸。唯以咳声令知有人。 戸外人陳云。我是居住播磨国賀古郡賀古駅北辺 沙弥教信。今往生極楽之時也。上人明年今月今夜可得其迎。為告此由故以来也。然間微光 僅入菴 細楽漸去西矣。
- 時に貞観八年八月十五夜空に音楽を聞く。これを奇(あや)しみ思ふ間に、人、柴戸を叩く。ただ咳声をもつて人ありと知らしむ。
- 戸外の人、陳(つ)げて云く。我はこれ播磨の国賀古の郡 賀古の駅の北の辺に居住せる、沙弥教信なり。今、極楽に往生の時なり。上人は明年の今月今夜、その迎えを得べし。この由を告げんが為の故に以つて来れるなり。しかる間、微光僅かに菴に入り。細楽ようやく西に去るなり。
勝如驚怪 明旦遣僧 勝鑑令尋彼処。勝鑑不論昼夜発向彼国。毎対往還人問教信之往生事。敢無答者。
- 勝如驚怪して明旦、僧勝鑑を遣わし彼の処を尋ねしむ。勝鑑、昼夜を論ぜず彼の国に発向す。往還の人に対(むか)うごとに教信の往生の事を問ふに、あえて答ふる者なし。
稍見賀古駅北有小廬。当其廬上鵄烏集翔。漸近寄見 群狗競食死人。傍大石上有新髑髏。容顔不損。眼口似咲。香気薫馥。又臨廬内 有一老嫗一童子 相共哀哭。便問悲情。
- 稍(ようや)く賀古の駅の北を見れば小廬あり。その廬の上に当りて鵄烏集り翔(かけ)る。ようやく近き寄り見れば、群狗競いて死人を食ふ。傍(かたわら)の大石の上に新たなる髑髏あり。容顔損ぜず、眼口咲(え)めるに似たり。香気薫馥す。たた廬内を臨めば、一老嫗一童子のあり。相共に哀哭する。すなわち悲情を問ふ。
嫗曰。死人是我夫 沙弥教信也。去十五夜既以死去。今成三日。一生之間 称弥陀号 昼夜不休以為己業。雇用之人呼 為阿弥陀丸。是為送日計已経三十年。是童即子也。今母与子 共失其便不知為方也。
- 嫗が曰く。死人はこれ我が夫、沙弥教信なり。去十五の夜、既に以つて死去す。今、三日に成れり。一生の間、弥陀の号(みな)を称して、昼夜に休まず以つて己が業となす。これを雇ひ用うる人、呼びて阿弥陀丸となす。これを日を送る計となして、すでに三十年を経たり。この童はすなわち子なり。今、母と子と、共にその便(たより)を失いて、為さん方を知らざるなり。
於是村里男女往還。道俗具聞 勝鑑之来由。星馳雲集。迴彼髑髏 歌唄讃歎矣。勝鑑速還陳上件事。
- ここにおいて村里の男女往還して、道俗具(つぶさ)に勝鑑の来れる由を聞きて、星のごとくに馳せ雲のごとくに集り、彼の髑髏を迴(めぐ)りて、歌唄讃歎す。勝鑑、速(すみやか)に還りて上に件(くだん)の事を陳(の)ぶ。
聖人聞此自謂。我年来無言 不如教信口称。恐利他行疎焉。
以同二十一日 故往詣聚落。自他共念仏云云
- 聖人、これを聞きて自から謂(おも)へらく。我が年来の無言、教信の口称にしかず。恐くは利他の行疎(おろそ)かならん。
- 同じき二十一日を以つて、故(ことさ)らに聚落に往詣して、自他共に念仏すと 云云。
明年八月一日本処隠居。至于期日出堂沐浴。語弟子等。教信之告相当今夜。今生言談此度許也。
- 明年の八月一日、本処に隠居す。その期日に至りて出堂沐浴して、弟子等に語(かたるら)く。教信の告げ今夜に相(あ)い当れり。今生の言談、この度(た)びばかりなり。
抑涙入堂弁備香華。線付仏手念誦如例。然間漢月影静松風声斜。漸運漏剋 到夜半程。楽音髣聞。異香且芬。聖人合音念仏。聞者歓喜不少。光明忽照紫雲満室。上人向西結印端坐入滅。時年八十七。遺弟等悲喜交集。双眼流涙。結縁上下二百余人。三七日夜囲繞彼屍不断念仏。此間白気猶以不絶。結願之後将以火葬。手印不焼 在於灰中。忽起石塔安之既畢。今号燧石塔之是也。具載彼上人伝。
- 涙を抑へて入堂して香華を弁備し、線(いと)を仏の手(みて)に付けて念誦例のごとし。しかる間、漢月影静かにて松風声斜なり。漸く漏剋(ろうこく)を運びて夜半に到る程、楽音髣(ほのか)に聞へ、異香且(かつ)芬(にほ)ふ。聖人音を合わせて念仏す。聞く者歓喜するに少なからず。光明たちまちに照し紫雲室に満つ。上人西に向ひ印を結び端坐して入滅す。時に年八十七。遺弟等悲喜交集して、双眼より涙を流す。結縁の上下二百余人、三七日夜、かの屍を囲繞して不断に念仏す。この間、白(香)気なお以つて絶えず。結願の後にまさに火葬を以つてせんとするに、手印焼けず灰中に在り。たちまちに石塔を起(た)てこれを安んじ既に畢(おわ)れり。今、燧石の塔と号するは是れなり。具(つぶさ)には彼の上人伝に載(の)す。
焉雖在家沙弥 前無言上人、是依弥陀名号不可思議也。教信是誰。何不励乎。練磨其心称名不退。彼常念観音者 尚離 難離之三毒。況常念弥陀人 盍(んぞ)往 易往之浄土哉。
- ここに在家の沙弥といえども、無言上人に前(さきだ)つこと、是れ弥陀の名号の不可思議に依つてなり。教信、これ誰ぞ、何んぞ励まざるや。其の心を練磨して称名退せざれ。彼の常念観音の者、なお、この三毒の離れ難きを離る。いわんや常念弥陀の人、なんぞ易往の浄土に往かざるや。
若常途念仏不能勇進。依此経説修臨時行。要須閑処料理道場。先於西壁安弥陀像。若一日若七日。随堪荘厳。随力供養。持戒清浄威儀具足。毎日三時或四時或五時或六時。毎時三万或二万或一万或五千。随行者意発願回向専念勤修。如綽禅師七日念仏得百万遍也。若七日夜勇猛精進 至終焉之暮 被弥陀之加 豈為永劫安楽不励七日苦行乎。
- もし常途の念仏勇進することあたわずんば。此の経の説に依つて臨時の行を修すべし。要(かなら)ず、すべからく閑処にして道場を料理し、まず西壁において弥陀像を安んず。もしは一日もしは七日、堪えるに随つて荘厳し、力に随いて供養せよ。持戒清浄にして威儀具足すべし。毎日三時あるいは四時あるいは五時あるいは六時、毎時に三万あるいは二万あるいは一万あるいは五千。行者の意に随いて発願し回向し専念勤修せよ。綽禅師のごときは七日の念仏に百万遍を得たまえり。もし七日夜、勇猛に精進すれば、終焉の暮に至りて弥陀の加を被(こうむ)る。あに永劫の安楽の為に七日の苦行を励まざらんや。