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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 一如とは真実なるさとりの境地をいう。一とは二、三に対する数量をあらわす一ではなく絶対不二のことであり、如とは人間の思慮分別を超えた、もののありのままのすがたをいう。<br />
 
 一如とは真実なるさとりの境地をいう。一とは二、三に対する数量をあらわす一ではなく絶対不二のことであり、如とは人間の思慮分別を超えた、もののありのままのすがたをいう。<br />
 
自と他、生と死、愛と憎しみといったさまざまな対立は、人間の自己中心的な想念である虚妄の分別心が生みだした虚構である。
 
自と他、生と死、愛と憎しみといったさまざまな対立は、人間の自己中心的な想念である虚妄の分別心が生みだした虚構である。
そうした虚妄分別を破って、もののあるがままなありようを直覚する智慧が開けたことを「さとり」という。そこでは知るものと知られるものが一つに融けあい、生と死がわけへだてなく受けいれられ、愛と憎しみをこえて、すべてがかけがえのない尊厳をもって輝いていく。その境地を一如とも、真如(真実ありのまま) とも、法性(存在の本性)とも、実相(真実のすがた)ともいい、そのような智慧を完成した人を仏陀(めざめた方)という。<br />
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そうした虚妄分別を破って、もののあるがままなありようを直覚する智慧が開けたことを「さとり」という。そこでは知るものと知られるものが一つに融けあい、生と死がわけへだてなく受けいれられ、愛と憎しみをこえて、すべてがかけがえのない尊厳をもって輝いていく。その境地を一如とも、[[真如]](真実ありのまま) とも、[[法性]](存在の本性)とも、[[実相]](真実のすがた)ともいい、そのような智慧を完成した人を仏陀(めざめた方)という。<br />
 
 この一如法性を人格的に表現して法身とも法性法身ともいう。それは思慮分別を超えているから、分別し限定することができないというので不可思議とも不可説ともいい、無相(かたちを超えている)ともいう。(梯實圓和上著『歎異抄』より)
 
 この一如法性を人格的に表現して法身とも法性法身ともいう。それは思慮分別を超えているから、分別し限定することができないというので不可思議とも不可説ともいい、無相(かたちを超えている)ともいう。(梯實圓和上著『歎異抄』より)
 
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2017年10月20日 (金) 15:12時点における版

一如

 一は絶対不二の意。如は梵語タタター(tathatā)の漢訳。真如のこと。()分別(ふんべつ)()の境位。 真実のすがた。 ありのままのすがた。 →真如(しんにょ)。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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一如

 一如とは真実なるさとりの境地をいう。一とは二、三に対する数量をあらわす一ではなく絶対不二のことであり、如とは人間の思慮分別を超えた、もののありのままのすがたをいう。
自と他、生と死、愛と憎しみといったさまざまな対立は、人間の自己中心的な想念である虚妄の分別心が生みだした虚構である。 そうした虚妄分別を破って、もののあるがままなありようを直覚する智慧が開けたことを「さとり」という。そこでは知るものと知られるものが一つに融けあい、生と死がわけへだてなく受けいれられ、愛と憎しみをこえて、すべてがかけがえのない尊厳をもって輝いていく。その境地を一如とも、真如(真実ありのまま) とも、法性(存在の本性)とも、実相(真実のすがた)ともいい、そのような智慧を完成した人を仏陀(めざめた方)という。
 この一如法性を人格的に表現して法身とも法性法身ともいう。それは思慮分別を超えているから、分別し限定することができないというので不可思議とも不可説ともいい、無相(かたちを超えている)ともいう。(梯實圓和上著『歎異抄』より)