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「習気」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
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   煩悩は断ぜられても残る余残の気。([[証巻#P--319|証巻 P.319]])
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 煩悩の体が断ぜられてもなお習慣となって残る煩悩のはたらきのこと。 ([[証巻#P--319|証巻 P.319]])
  
 
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(梵)ヴァーサナー vāsanā の訳。習ともいう。
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われわれの思想や行為、特に煩悩をしばしば起こすことによって、われわの心の中に印象づけられ熏じつけられた(熏習された)煩悩の気分、習性、余習、残気のこと。
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それ故に「煩悩は断ってもなおその余習であう習気は残ることがある」と説かれている。{─以下略─}(仏教学辞典)
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習い性、習慣形成力。<br />
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2017年10月30日 (月) 08:19時点における最新版

じっけ

 煩悩の体が断ぜられてもなお習慣となって残る煩悩のはたらきのこと。 (証巻 P.319)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

習気

(梵)ヴァーサナー vāsanā の訳。習ともいう。 われわれの思想や行為、特に煩悩をしばしば起こすことによって、われわの心の中に印象づけられ熏じつけられた(熏習された)煩悩の気分、習性、余習、残気のこと。 それ故に「煩悩は断ってもなおその余習であう習気は残ることがある」と説かれている。{─以下略─}(仏教学辞典)

習い性、習慣形成力。

熏習