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「自信教人信」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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::大悲弘くあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるに成る。([[信巻末#P--261|信巻 P.261]],[[化巻本#P--411|化巻 P.411]])
 
::大悲弘くあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるに成る。([[信巻末#P--261|信巻 P.261]],[[化巻本#P--411|化巻 P.411]])
  
と、[[大悲]]は伝えるものではなく、弘(ひろ)く衆生を[[化益]]するものだとされておられる。
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と、[[大悲]]は伝えるものではなく、弘(ひろ)く衆生を[[化益]]するものだとされておられる。浄土真宗(教団の意)は、伝道教団といわれ、特に蓮如さんのご教化によって一大教団となった。その意からすれば「大悲伝普化」の伝が親しいのだが御開山はあえて大悲普普化」とされおられる。これは御開山が、
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:浄土真宗に帰すれども
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: 真実の心はありがたし
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: 虚仮不実のわが身にて
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: 清浄の心もさらになし
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とされておられるように、自らを「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」([[証巻#P--307|証巻 P.307]])とみておられたからであろう。いわゆる「機の深信」の立場に立っておられたのである。それはまた『歎異鈔』で、
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:親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。 ([[歎異抄#P--835|歎異抄 P.835]])
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と、唯円が御開山の仰せとして語っているように、自ら師匠としての「教位」に立つことを否定し、同朋、同行として阿弥陀如来の本願を聞信する「聞位」に立たれたからであった。傍証だが覚如上人が、
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:説導も涯分いにしへにはづべからずといへども、人師・戒師停止すべきよし、聖人の御前にして誓言発願をはりき。([[口伝鈔#P--873|口伝鈔 P.873]])
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と記しておられるのも、その意であろう。御開山は「現生十種の益」([[信巻末#P--251|信巻 P.251]])で「常行大悲の益」とされておられる。この常行大悲の益は、『安楽集』で『大悲経』を引いて、
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:いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく。([[信巻末#P--260|信巻引文 P.260]])
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2017年11月14日 (火) 21:47時点における版

『往生礼讃』の文。

自信教人信 難中転更難
みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。
大悲伝普化 真成報仏恩
大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。(往生礼讃 P.676)

御開山は、智昇法師の『集諸経礼懺儀』を引文され、

自信教人信 難中転更難
みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きなかにうたたまた難し。
大悲普化 真成報仏恩
大悲弘くあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるに成る。(信巻 P.261,化巻 P.411)

と、大悲は伝えるものではなく、弘(ひろ)く衆生を化益するものだとされておられる。浄土真宗(教団の意)は、伝道教団といわれ、特に蓮如さんのご教化によって一大教団となった。その意からすれば「大悲伝普化」の伝が親しいのだが御開山はあえて大悲普普化」とされおられる。これは御開山が、

浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて
 清浄の心もさらになし

とされておられるように、自らを「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」(証巻 P.307)とみておられたからであろう。いわゆる「機の深信」の立場に立っておられたのである。それはまた『歎異鈔』で、

親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。 (歎異抄 P.835)

と、唯円が御開山の仰せとして語っているように、自ら師匠としての「教位」に立つことを否定し、同朋、同行として阿弥陀如来の本願を聞信する「聞位」に立たれたからであった。傍証だが覚如上人が、

説導も涯分いにしへにはづべからずといへども、人師・戒師停止すべきよし、聖人の御前にして誓言発願をはりき。(口伝鈔 P.873)

と記しておられるのも、その意であろう。御開山は「現生十種の益」(信巻 P.251)で「常行大悲の益」とされておられる。この常行大悲の益は、『安楽集』で『大悲経』を引いて、

いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく。(信巻引文 P.260)