「善導」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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(613-681)中国浄土教の大成者。<kana>光明寺(こうみょうじ)</kana>の<kana>和尚(かしょう)</kana>・<kana>宗家(しゅうけ)</kana><kana>大師(だいし)</kana>・<kana>終南(しゅうなん)</kana>大師等とも呼ばれる。<kana>臨淄(りんし)</kana>(現在の山東省)の人、あるいは<kana>泗州(ししゅう)</kana>(現在の<kana>安徽(あんき)</kana>省)の人ともいう。 | (613-681)中国浄土教の大成者。<kana>光明寺(こうみょうじ)</kana>の<kana>和尚(かしょう)</kana>・<kana>宗家(しゅうけ)</kana><kana>大師(だいし)</kana>・<kana>終南(しゅうなん)</kana>大師等とも呼ばれる。<kana>臨淄(りんし)</kana>(現在の山東省)の人、あるいは<kana>泗州(ししゅう)</kana>(現在の<kana>安徽(あんき)</kana>省)の人ともいう。 | ||
− | 諸方を遍歴し、<kana>西方浄土変相図(さいほうじょうどへんそうず)</kana>をみて浄土教に帰し、のち<kana> | + | 諸方を遍歴し、<kana>西方浄土変相図(さいほうじょうどへんそうず)</kana>をみて浄土教に帰し、のち<kana>并州(へいしゅう)</kana>の玄中寺<kana>[[道綽]](どうしゃく)</kana>に禅師を訪ねてその門に投じた。 |
その後、終南山悟真寺、長安の光明寺に移って念仏<kana>弘通(ぐずう)</kana>につとめられた。当時、『観経』にもとづく浄土教の研究・講説がさかんであったが、善導大師は<kana>浄影寺(じょうようじ)</kana><kana>[[慧遠]](えおん)</kana>等の<kana>聖道(しょうどう)</kana>諸師の説を批判して『観経疏』四巻を著し、<kana>[[曇鸞]](どんらん)</kana>大師・道綽禅師の伝統をうけ、<kana>[[凡夫入報]](ぼんぶにっぽう)</kana>の宗旨を明らかにされた。 | その後、終南山悟真寺、長安の光明寺に移って念仏<kana>弘通(ぐずう)</kana>につとめられた。当時、『観経』にもとづく浄土教の研究・講説がさかんであったが、善導大師は<kana>浄影寺(じょうようじ)</kana><kana>[[慧遠]](えおん)</kana>等の<kana>聖道(しょうどう)</kana>諸師の説を批判して『観経疏』四巻を著し、<kana>[[曇鸞]](どんらん)</kana>大師・道綽禅師の伝統をうけ、<kana>[[凡夫入報]](ぼんぶにっぽう)</kana>の宗旨を明らかにされた。 |
2018年1月20日 (土) 17:19時点における版
ぜんどう
(613-681)中国浄土教の大成者。
諸方を遍歴し、
その後、終南山悟真寺、長安の光明寺に移って念仏
著書は他に『
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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