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「善鸞」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 生没不詳。号[[慈信]]房。親鸞聖人の息男、で長男とも次男ともいわれる。建長の初期、東国門徒の間で諍論が生じたため親鸞聖人に代わって東下したがかえって異義にかたむき、建長八年六月二十七日(1256)親鸞聖人によって義絶された。
 
 生没不詳。号[[慈信]]房。親鸞聖人の息男、で長男とも次男ともいわれる。建長の初期、東国門徒の間で諍論が生じたため親鸞聖人に代わって東下したがかえって異義にかたむき、建長八年六月二十七日(1256)親鸞聖人によって義絶された。
  
関東在国中の親鸞聖人は、自らの教団組織を持とうとする意思はなく、教えを乞う弟子に対する講師の役割に徹せられたが、善鸞は自らの生活基盤である教団組織を持とうとあせるあまり異義にかたむいたのである。
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関東在国中の親鸞聖人は、自らの教団組織を持とうとする意思はなく、教えを乞う弟子に対する講師の役割に徹せられていた。しかし善鸞は関東で自らの教団組織を持ち生活基盤築こうとした。そこで親鸞聖人の弟子の門徒を引き抜こうとして異義を説き弟子と対立していったのであろう。

2018年1月26日 (金) 17:50時点における版

ぜんらん

 生没不詳。号慈信房。親鸞聖人の息男、で長男とも次男ともいわれる。建長の初期、東国門徒の間で諍論が生じたため親鸞聖人に代わって東下したがかえって異義にかたむき、建長八年六月二十七日(1256)親鸞聖人によって義絶された。

関東在国中の親鸞聖人は、自らの教団組織を持とうとする意思はなく、教えを乞う弟子に対する講師の役割に徹せられていた。しかし善鸞は関東で自らの教団組織を持ち生活基盤築こうとした。そこで親鸞聖人の弟子の門徒を引き抜こうとして異義を説き弟子と対立していったのであろう。