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「道場」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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§61 世尊よ、この説法がなされているとき、五百人の神々と人間たちが覚りへ向けて心を発しました。そして、私は黙り込んでしまいました。それ故に、世尊よ、私は、その善き人(善士)の病気見舞いに行くことに耐えられません」
 
§61 世尊よ、この説法がなされているとき、五百人の神々と人間たちが覚りへ向けて心を発しました。そして、私は黙り込んでしまいました。それ故に、世尊よ、私は、その善き人(善士)の病気見舞いに行くことに耐えられません」
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2018年3月28日 (水) 09:58時点における版

「人生は 如来にあわせていただく 道場である」- 梯實圓

The life is a dojo where we meet Tathagata.

この言葉は好きな言葉である。『維摩経』には、道場について32種を挙げている。この中に「諸煩惱是道場知如實故(諸の煩悩は、これ道場なり、如実に知るが故に)」とか、「三界是道場無所趣故(三界は、これ道場なり、趣く所なきが故に」等とある語に依られたのであろう。
生きるということは煩悩に苛まされ、何が起こるか判らない不安で難儀なことであるが、自己の人生を修行する道場であると受け取るところに、生きることに仏道としての新しい意味がもたらされる。これを浄土真宗では「おてまわし」とか「お育て」などと呼称してきた。あらゆるものの中に、私を如来に遇わせていただく機縁であると受け取ることで生と死の意味が転じられていくのであった。

維摩経

菩薩品第四  光厳童子[1]

佛告光嚴童子。汝行詣維摩詰問疾。

仏は、光厳童子に告げたまえり。「汝、維摩詰(ゆいまきつ)に行詣して、(やまい)を問え」。

光嚴白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔出毘耶離大城。

光厳は、仏に(もう)して(もう)さく、「世尊、我れ、(かしこ)に詣(いた)りて、疾を問うに堪任せず。所以は何(いか)んとなれば、憶念するに、我れ、昔、毘耶離(びやり)大城を出でたり。

時維摩詰方入城。我即爲作禮而問言。居士從何所來。

時に、維摩詰、まさに城に入らんとす。我は、すなわち為に礼を作し、問うて言わく、『居士よ、何れの所より来る。』と。

答我言。吾從道場來。

我に答えて言わく、『吾は、道場より来たれり。』と。

我問道場者何所是。

我れは問えり、『道場とは、何れの所か、これなる。』と。


答曰。直心是道場 無虚假故。

答えて曰く、『直心、これ道場なり、虚仮なきが故に。

發行是道場能辦事故。

発行(事を発す)、これ道場なり、よく事を辨ずるが故に。

深心是道場増益功徳故。

深心、これ道場なり、功徳を増益するが故に。

菩提心是道場無錯謬故。

菩提心、これ道場なり、錯謬なきが故に。

布施是道場不望報故。

布施、これ道場なり、報を望まざるが故に。

持戒是道場得願具故。

持戒、これ道場なり、願の具わるを得るが故に。

忍辱是道場於諸衆生心無礙故。

忍辱、これ道場なり、諸の衆生に於いて、心に無礙なるが故に。

精進是道場不懈退故。

精進、これ道場なり、懈退せざるが故に。

禪定是道場心調柔故。

禅定、これ道場なり、心、調柔なるが故に。

智慧是道場現見諸法故。

智慧、これ道場なり、現に諸法を見るが故に。

慈是道場等衆生故。

慈、これ道場なり、衆生に等しきが故に。

悲是道場忍疲苦故。

悲、これ道場なり、疲苦を忍ぶが故に。

喜是道場悦樂法故。

喜、これ道場なり、法を悦楽するが故に。

捨是道場憎愛斷故。

捨、これ道場なり、憎愛断ずるが故に。

神通是道場成就六通故。

神通、これ道場なり、六通を成就するが故に。

解脱是道場能背捨故。

解脱、これ道場なり、よく背捨するが故に。

方便是道場教化衆生故。

方便、これ道場なり、衆生を教化するが故に。

四攝是道場攝衆生故。

四摂、これ道場なり、衆生を摂するが故に。

多聞是道場如聞行故。

多聞、これ道場なり、聞くが如くに行ずるが故に。

伏心是道場正觀諸法故。

伏心、これ道場なり、正しく諸法を観ずるが故に。

三十七品是道場捨有爲法故。

三十七品、これ道場なり、有為の法を捨つるが故に。

諦是道場不誑世間故。

諦、これ道場なり、世間を誑(あざむ)かさざるが故に。

縁起是道場無明乃至老死皆無盡故。

縁起、これ道場なり、無明ないし老死皆、無尽なるが故に。

諸煩惱是道場知如實故。

諸煩悩は、これ道場なり、如実に知るが故に。

衆生是道場知無我故。

衆生、これ道場なり、無我を知るが故に。

一切法是道場知諸法空故。

一切法、これ道場なり、諸法の空を知るが故に。

降魔是道場不傾動故。

降魔、これ道場なり、傾動せざるが故に。

三界是道場無所趣故。

三界、これ道場なり、趣く所なきが故に。

師子吼是道場無所畏故。

師子吼、これ道場なり、畏るる所なきが故に。

力無畏不共法是道場無諸過故。

力・無畏・不共法、これ道場なり、諸過なきが故に。

三明是道場無餘礙故。

三明、これ道場なり、余の礙なきが故に。

一念知一切法是道場成就一切智故。

一念に一切の法を知る、これ道場なり、一切智を成就するが故に。


如是善男子。菩薩若應諸波羅蜜教化衆生。諸有所作擧足下足。當知皆從道場來住於佛法矣。

かくの如く善男子よ、菩薩、もし諸波羅蜜に応じて、衆生を教化せば、諸有(あらゆ)るの所作、挙足下足は、まさに知るべし、道場より来たりて仏法に住することを。』と。

説是法時五百天人皆發阿耨多羅三藐三菩提心。故我不任詣彼問疾。

この法を説ける時、五百の天人は、皆、阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。
故に我、(かしこ)(いた)りて、疾を問うに()えず。」と。

梵文和訳

§54 そこで、世尊は、リッチャヴィ族の若者プラバーヴューハ(光厳)におっしゃられた。
 「善き人よ、あなたは、リッチャヴィ族のヴィマラキールティ(維摩詰)の病気見舞いに行くがよい」
 プラバーヴューハもまた、言った。
 「世尊よ、私は、その善き人の病気見舞いに行くことに耐えられません。それは、どんな理由からでしょうか。世尊よ、私は、思い出します。世尊よ、ある時、私は、ヴァイシャーリー(昆耶離)の大都城から出ました。そして、リッチャヴィ族のヴィマラキールティが、〔ヴァイシャーリーの大都城に〕入ろうとしていました。その私は、その〔ヴィマラキールティ〕に挨拶して、このように言いました。

『資産家(居士)よ、あなたはどこから来られたのですか?』と。
その〔ヴィマラキールティ〕が、私にこのように言いました。
『私は、覚り(菩提)の座から来たのだ』と。
私は、その〔ヴィマラキールティ〕にこのように言いました。
『覚りの座とは、これは何の名前でしょうか?』
その〔ヴィマラキールティ〕は、私にこのように言いました。

§55 『良家の息子(善男子)よ、覚りの座ということ、これは、偽りのないことで、意向という座である。行ないを完成するもので、これは、実行という座である。卓越した〔覚りを〕完成するもので、これは高潔な心という座である。 忘れることがないことで、これは覚りを求める心(菩提心)という座である。

§56 果報を期待しないことで、これは布施という座である。誓願を満足させることで、これは持戒という座である。あらゆる衆生と衝突することのない心を持つことで、これは忍耐(忍辱)という座である。不退転であることで、これは努力精進という座である。心が勤勉であることで、これは禅定という座である。〔ものごとを〕目の当たりに〔明瞭に〕見ることで、これは智慧という座である。

§57あらゆる衆生に対して平等な心を持っていることで、これは慈しみ(慈)という座である。悲嘆に耐えることで、これは憐れみ(悲)という座である。真理の教え(法)の園林の喜びに満足することで、これは喜び(喜)という座である。愛執と憎悪を断じていることで、これは〔偏りのない〕平等観(捨)という座である。

§58 六種の神通(六通)を具えていることで、これは神通という座である。妄想分別のないことで、これは解脱という座である。衆生を成熟させることで、これは方便という座である。あらゆる衆生を包摂することで、これは〔衆生を〕包容して救うための〔四つの〕ことがら(四摂法)という座である。理解がしっかりしていることから、これは〔聞いて〕学ぶことという座である。理にかなって観察することで、これは〔心の〕洞察という座である。有為と無為を放棄していることで、これは覚りを助ける〔三十七の修行〕法(三十七助道法)という座である。あらゆる世間〔の人々〕を欺かないことで、これは〔四つの聖なる〕真理(四聖諦)という座である。無知(無明)から老・死に至るまでの煩悩の流出(漏)がなくなっていることで、これは〔十二支〕縁起という座である。あるがままの真理(真如)を完全に覚っていることで、これはすべての煩悩の鎮静という座である。

§59 一切衆生が無自性であることで、これは一切衆生という座である。〔あらゆるものごとが〕空であることを完全に覚っていることで、これはあらゆるものごと(一切法)という座である。〔悪魔に対して〕動揺しないことで、これはすべての悪魔の打破という座である。〔三界に〕住することがないことで、これは三界という座である。畏れず驚かないことで、これは師子吼する勇敢さという座である。あらゆる面で非難されるところのないことから、これは〔十種の智慧の〕力(十力)、〔説法における四種の〕畏れなきこと(四無畏)、 すべてのブッダに具わる〔十八種の〕特別の性質(十八不共仏法)という座である。少しも煩悩の残余を留めないことで、これは三種の明知(三明)という座である。一切知者の智慧(一切種智)を完全に覚っていることから、これは一念にあらゆるものごとを余すところなく覚知するという座である。

§60良家の息子(善男子)よ、まさに以上のように、菩薩たちが、〔六つの〕完成(六波羅蜜)と結びつき、衆生を成熟させることと結びつき、正しい教え(正法)の把握と結びつき、善根と結びついている歩行〔の足〕を上げたり、下げたりする〔あらゆる振る舞いがある〕限り、それら〔の菩薩たち〕は、すべて覚りの座からやってきて、〔また〕ブッダの教えからやってきて、ブッダの教えの中に住するのである』

§61 世尊よ、この説法がなされているとき、五百人の神々と人間たちが覚りへ向けて心を発しました。そして、私は黙り込んでしまいました。それ故に、世尊よ、私は、その善き人(善士)の病気見舞いに行くことに耐えられません」