「教我思惟」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2018年5月12日 (土) 17:01時点における版
きょうがしゆい
「われに思惟を教へたまへ」 (化巻 P.382)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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善導大師は、教我も思惟も定善とみられた。
宗祖は「教我思惟」を方便とみられた。
「思惟」という言葉の中に私の計らいに依って如来浄土を感得しようとするものがある。そういう風に感得せられた浄土というのは当然方便位の化土に過ぎないという思し召しか。 仏説 観無量寿経#P--91