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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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Ⅳ-0371慕歸繪第一卷

第一段
夫まよへるがゆへに、かりに眞如の妙埋をうしなひ、さとれるが故に、つゐに妄情の一念もなし。信哉、天台大師ののたまはく、「然此心性諸法、迷謂内外、悟唯一心」(輔行*卷五)と[云々]。然者、番々出世の諸佛も、流轉の凡愚の度脫の方法なきことをばあはれみ、億々無量の衆生も、罪障の樊籠に苦縛の解脫しがたき事をばかなしむ。されば大聖一代の設化なれども、八宗・九宗、廢立あひわかれ、顯敎・密敎、行學ことなり。此中にすべて一代を簡別するに二種あり。いはく、聖道・淨土の二門なり。聖道の方をば難行道といひ、淨土のかたをば易行道と名づく。聖道の諸門は智惠もめでたき人のさとりをきはめて出離せしめ、淨土の一門は愚鈍につたなきものゝ往生をとぐるにつきて難易をわかてるにてしりぬべし。然に『樂邦文類』(卷四)には「淨土非難易、難易有人、難者疑情咫尺萬里、易者信萬里咫尺」といへる歟。くれぐれと五劫思惟の本願をおこし、はるばる兆載永劫の修行にたへて御骨をおりければ、倂十方衆生を懸物にして佛にならむと、我等の爲にⅣ-0372廻向せしめ給へる四十八願一々に成就して正覺なり。阿彌陀といはれ給事うたがひなきうへは、たゞたのむばかりと先心得べし。さてこの廻向にこたへて信樂の心おこれば、やがて欲生の心發得して、次第に轉入すればこそ、三信とも三心ともいはれ、つゐには又一心一念にも落居すなれ。かゝればこそ、釋迦の殷懃付屬も、諸佛の證誠護念も、彌陀の功德をほめ、本願の名號を信ぜよとをしへ給へども、機にたへば尤眞言・止觀の觀道に趺をむすび、持戒・坐禪の禪菴に思をこらすべきに、おそらくは末法の時にいたれる今日此比、聖道の修行にをきては、或は五十二位の階級をふめる歷劫迂廻の漸敎もあり、或は自身卽佛の解了を事とする速疾頓成の所談もあれども、すべからくをのをの涯分をかへりみて、時機相應の法門に赴て、たゞ橫超安樂の要路をねがふべし。唐土諸宗の祖師達も、晨旦名德の儒士等までも、阿彌陀をほめたてまつり、西方界をすゝめずといふ事なし。ひろくは勘載に隙なし。中にも先、心に浮にまかせて密家一句の要文を得たり。「金剛界廣大儀軌品」にいはく、「十方三世一切諸佛中、彌陀勝下劣凡夫易生故、十方恆沙諸佛淨土中、无超安樂國土」[文]。又『祕密神呪經』には、「三世諸佛出世本懷、爲說阿彌陀佛名號也」[云々]。或『經』(彌陀祕密*神呪經)には、阿彌陀の三字をばいみじくⅣ-0373ときあらはさるゝに、「阿字十方三世佛、彌字一切諸菩薩、陀字八萬諸聖敎、三字之中皆具足」ともみえたり。めのこたきとかやの風情に心得やすき、加樣の明文を少々思いだすに隨て書載侍り。幸に明師にあへり。もとは法相・三論の宗を兼學せしかども、後には淸閑一實の敎に歸伏して更に貳なし。されども遁世をさきとし敎導をむねとして、檀主をへつらひ諸人をほむる事はなくして、半籠居の體なれば、世俗の緇素の一門他家のむつびもたがはず、雲客も卿相も年來日來のまじはりそむかざりけり。さるうへに代々寺務管領の號あるに就て、兼て自身往生淨土のためばかりにさる止事なき法流を酌傳を、縁にふれても聞及人の由緖も心惡さに蓬屋に尋のぞみて、此たび出要の方軌を問こゝろみ侍し時、物語あるを聽聞せしかば、宿善の開發しけるにや、理窟霧まけり、一度聞に歡喜をなす。金林月すめり、おちおちあきらむるに疑情ある事なし。孔子詞には、「朝聞道夕死可矣」(論語)といへり。時の間もきえやすき露の命をかへりみず、無後心のおもひに住して、こととくも先たづねけるは、かしこくぞと思ぞあはせらるゝ。又これは常に耳なれ、目にふるゝ樣にて珍からぬ文證なれども、『摩訶止觀』(卷一上)曰、「一日三捨恆沙身、尙不能報一句力、況兩肩荷負、百千萬劫、寧報佛法之恩」[文]。Ⅳ-0374斯芩王の私訶提佛に仕へ、梵摩達が珍寶比丘に奉て、飮食・衣服・臥具・醫藥の四事の供養を述し、是みな念佛三昧の法をきかむが爲なり。加之大王は法を求て給仕を千載にいたし、常啼は般若を聞て五百由旬の城にいたるといへる歟。『大論』(大智度論*卷一初品意)には、「若無信心雖解文義空無所獲」[云々]。故にその厚恩を報酬せむと欲すれば、泰山は猶ひきく、蒼海はなを淺し。せめても平日の行狀を丹靑にあらはして、高殿の名德を晨昏にほめむが爲に、二十六段の篇章をたて卷を十軸に分事は、圓宗には十乘・十境の觀門を明て十界・十如の因果をさとり、淨敎には十願・十行の嘉號を持て十卽・十生の往益をうと談ず。聖道・淨土の二門、おほく十をもて規矩とするがゆへなり。さて「慕歸」と題する心は、彼歸寂を戀るが故に、此後素の名とし侍り。もとより身才學なければ、思のごとく詞花を和唐にかざる事なく、心頑愚なれば、形のごとく言葉を筆墨にあやつるばかり也。たゞ志之所之偏に忘恥忘嘲たるにや。于時觀應二歲[辛卯]初冬十月卅日書記せり。
抑勘解由小路中納言法印[宗昭]者、龜山院御宇文永七年十二月廿八日、三條富小路邊に在て誕生[云々]。俗姓は北家にて氏祖長岡右相府W内麿公R七代の遺孫、弼宰相有國卿六代の孫枝、嵯峨三位宗業卿の末葉、中納言法印宗惠眞弟、左衞門佐廣綱Ⅳ-0375孫也。嚴師上綱は父世を早して一門長者日野中納言家光卿の子となりて、大原二品親王[尊助]の御弟子として三部・四曼の萼をもてあそび、五音・七聲の曲に達しけるが、隱遁して覺惠房とよばれき。母儀は周防權守中原のなにがしとかや號しける其女なり。倩往事を思に、宗光朝臣は白河・鳥羽院等の聖代に仕へり。宗業卿は後鳥羽・土御門の明時につかへて、各文道拔群のほまれをほどこし、儒門絶倫の名を揚て、後鳥羽院には四儒隨一たりしかば、上古より當時に至までも、道にふけり學をたしなむ家と云事を、襃美讚嘆せぬはなかりけり。爰曾祖父の三位信綱卿は家督の儀として祖業をつぎしかば、祖父廣綱に至までは累代餘慶によりて、三事の顯要にも浴すべけれども、力なく俗網を二代に隔、梵篋の滿月を仰べき身となりしかば、名譽の一流ながくたえぬるこそうたてけれ。法印出家の後は、兼仲獻納の猶子たりし程に、彼卿の號をもて、一門も他家もみな勘解由小路法印と稱しけるとぞ。
第二段
八、九歲兩年之間は、天台宗學者に侍從竪者貞舜とて侍しが、遁世して慈信房澄海とぞ號しける、種姓は猫間中納言光隆卿末流也、彼仁に對して『倶舍論本頌』三十卷をよみけるが、大略暗誦してくらからず。澄海いはく、わづかに十歲の内のⅣ-0376人の習學こそありとも、さすがに數卷を暗誦せる事は希代の器量かなとて、稱美のあまり天台の祕書、『初心抄』五帖を付屬するとて、此書は先師敬日房[圓海]自筆本也。隨分祕藏すといへども、法器の感あり、將來にはさだめて佛家の棟梁ともなり、德海の舟楫ともいはれ給べき人なればとて、奧書をしてぞわたしける。
第三段
後宇多院御在位弘安五年と云十三歲の時、はじめて松房の深窓を出で、しばらく竹院の一室に入侍べき縁や有けむ。山門の碩德といはれし竹なかの宰相法印宗澄を師として天台宗を學せしめけり。

慕歸繪之事、不可出當寺内之處、有不慮之儀、數年爲 將軍家之御物。雖然文明十三年十二月四日、以飛鳥井中納言入道[宋世]依申入事之子細、今度所被返下也。但此内第一第七之卷爲紛失之間、同十四年仲冬上旬之比、令書加之者也。尤希代之事歟。可祕可祕。

詞 黃門入道[宋世]
畫師 掃部助藤原久信


Ⅳ-0377慕歸繪第二卷

第一段
彼法印に隨逐して、垂髮ながらやうやく四敎・五時の名目をならひ、一家大都の綱網を得しかば、師範も法器に堪たることをよろこび、童稚も提携に嬾からずしてすぎ行ほどに、いつしか不慮に轉變依違の事出來て、幾の月日をもをくらざるに、離坊のきざみ心ならず、又翌年十四といふ春のころ、寺門南瀧院右府僧正[淨珍]と申すは、北小路右相府W道經公R孫、二位中將基輔卿息にや、或所にて彼貴邊にたばかりとられけるぞ、縡の楚忽なるもたのまれぬ氣して、かつは鬼に神の風情とは是をいふにやと不思議にぞおぼえける。
第二段
さるほどに猶同年の事なりけるに、一乘院前大僧正房、いかなる便にかこの童形のとしのほどにも似ず、はしたなき懸針垂露の筆勢を御覽ぜられけるとて、ゆかしく思召けるにや、あまたの所縁につきて頻に氣裝し仰られけれども、嚴親承諾し申さぬ故は、さのみ所々を經歷もしかるべからざる歟。其上尋常の法には、髮Ⅳ-0378をさげて大童にて久くある事は本意ならず、たゞとく出家得度をもせさせてこそ心安けれとて、かたく子細を申けるに、或時は又小野宮中將入道師具朝臣W于時侍從Rを連々御招引、知音なれば狂て誘てまいらせなむやと懇切に仰られけるとて、其旨を度々傳說しけれども、なを心づよくぞ難澁申ける。聞及やからは、人により事にこそよるに、是程時々の貴命をいなみ申はかへりて無禮にもあたり、人倫の法にも背ものをやなどいひあふもあり。或輩は又さる名家の一族なれば廉をたおさじと、至て古義を存ぜしむるもちからなき事歟、など申も有けり。しかるに、同七月十二日のことなりけるに、黃昏の斜なる景を見すぐし、桂月の明なる光を待えて、四方輿をかゝせ、ひた物具したる大衆を引率して、旣に奪取べき御結構あるよしを仲人ありてひそかに告示す程に、本所にも其用意を致す際、其時も御本意を遂られず、さこそ遺恨にも思食けめ。さりながらなをなをもあやにくにや、其後もたゞひたすらに御懇心あさからざれば、親の本懷に任てやがてこそ出家をも遂させめなどこまかに御約束の旨ありければ、此上は固辭に據なしとて、初參あるべきにさだまりぬ。さりながら聊日かずの經けるとて、いとゞ御心元なき由を、しき浪をうつが如に祗候人これ彼をたちかへたちかへ差上られて責仰られけⅣ-0379れば、まづ西林院三位法印行寛附弟のよしにて入室の儀あり。やがて件法印引導にて攝津國原殿の禪房へはまいりけり。其時の門主は前大僧正坊W信昭 岡屋攝政殿御息Rとぞ申ける。しかるにあへなく十四歲より侍りつる僧正房にも、すぎをくれたてまつりぬ。彼附弟僧正房[覺昭]と申は、近衞關白[基平公]御息也。先師の舊好も他に異なれば、相續給仕あるべき由仰置れけるに付て、今の門主にも猶御氣色快然にて、和州菅原の幽地を卜て、常には閑適をよみしましましけるにも、光仙殿とてあまたの垂髮共の外に一兩人祗候しける上臘兒の其一にて、心操たち振舞も幽玄に、容顏ことがらも神妙におぼしめしければ、晝は竟日に、夜は夜を專にして御影のごとくにつき從たてまつりて、年月を送ける。なかにもよろづにつけてあぢきなく、さすがかたほなる心の底に、おりおりは今生の榮耀もいつまでとのみ思はれ、來生の資貯はかりそめにも儲がたく案ぜられけるぞ、末の世に法器たるべき芳縁のやうやく萌けるにやとおぼえ侍る。

詞 三條亞相[公忠卿]
畫師 沙彌如心W因幡守藤原隆章R


Ⅳ-0380慕歸繪第三卷

第一段
弘安九年十月廿日の夜、十七歲といふに、彼院家にして出家、やがてその夜受戒ありけり。これは孝恩院三位僧正印寛W行寛法印甥Rうけたまはりて、とり沙汰とぞきこえし。
第二段
素懷を遂ぬるのちは、行寛法印に相從ひ稽古の一途におもむき、法相を學せらるれば、無著・世親・護法論師の跡ををはんと、ほとんど寸陰を競けり。かくて鑽仰やうやく世上に秀で、名譽しばしば天下にきこゆべかりしかども、蜀都ちからなければ、公請にもしたがひがたく、龍洞あゆみをうしなへば、人望ありぬべしともおぼえねば、いつしか交衆もものうく、されば苦學も勇なくぞおもひける。さる程に、おりおりは門主に身のいとまを申けれどもゆるされず、不諧の故に稽古のかたこそ退屈すとも、離寺の條はしばらく堪忍すべきよし頻に宥おほせられけるとなん。これによりて、遂業の沙汰などにもをよばず、直に律師に擧任せらⅣ-0381れければ、別道の僧綱の儀にてぞなを寓直しける。
第三段
奈良より偸閑に退出の事ありしついでにおもふ樣、たとひ本寺の交衆は抛がたくとも、出離の要道にをいて望を斷ぬ。をのれが限量あゆみをうしなへばなり。西方の欣求はたのむにたれり、底下の凡夫にいたるまで愚をすてず。ねがふらくは南無にたよりあればなり。但わが法相宗は五性各別の義をたて、諸法性相の釋をむねとして決判きびしき家をや。おほかた名を法相宗にかけながら、肩を淨土門にいれんとす。交衆のため外聞時宜いかゞなどためらひおぼゆるに、且はまづ例證を外にもとむべからず。宗家には千部の論師といはれたまふ世親菩薩すら、もはら無㝵光に歸命して安樂國に願生すとこそつたへうけたまはれ。ましてやいはん、我等凡夫おもへば出離のはかりごとにはこれこそ所愛の法なれ。機敎覆載し、函蓋相順して加樣におもひ萌もしかるべき宿縁か。いまきく、他門にもあらで自宗にをいてまぢかきためしあるかな。さしも明匠といはれし三藏院範憲僧正すら、彌陀をたのみて晝夜に稱名を專にし、朝夕に數遍を勵けりと[云々]。かしこかりけり、所詮外相の進退によるべからず、内心の工案こそあらまほしけれとて、弘安Ⅳ-0382十年春秋十八といふ十一月なかの九日の夜、東山の如信上人と申し賢哲にあひて釋迦・彌陀の敎行を面受し、他力攝生の信證を口傳す。所謂血脈は叡山黑谷源空聖人、本願寺親巒聖人二代の嫡資なり。本願寺祖師先德、俗姓は日野宮司啓令有範の息男、眞諦は山門靑蓮院慈鎭和尙の御弟子なれば、たゞ淨土一宗をきはめたまふのみにあらず、本宗は又御師範黑谷の先蹤に相同く一家天台の源底をうかゞひ、上乘祕密の門流をも酌たまひけり。しかれば、眞につけてもやむごとなく、俗につけてもいやしからざる事をやW委見于彼別傳R。將又、安心をとり侍るうへにも、なを自他解了の程を決せんがために、正應元年冬のころ、常陸國河和田唯圓房と號せし法侶上洛しけるとき、對面して日來不審の法文にをいて善惡二業を決し、今度あまたの問題をあげて、自他數遍の談にをよびけり。かの唯圓大德は鸞聖人の面授なり。鴻才辯說の名譽ありしかば、これに對してもますます當流の氣味を添けるとぞ。

詞 一條前黃門[實材卿]
畫師 攝津守藤原隆昌


Ⅳ-0383慕歸繪第四卷

第一段
同三年には、法印そのとき廿一のことにや、本願寺先祖勸化し給ふ門下ゆかしくおぼゆるに、さることのたよりあることをよろこびて、しばらくいとまを南都の御所へ申賜て、東國巡見しけるに、國はもし相州にや、餘綾山中といふ所にして、風瘧をいたはる事侍るに、慈信房W元宮内卿公善鸞R入來ありて、退治のためにわが封などぞ、さだめて驗あらんと自稱しあたへんとせらる。眞弟如信ひじりも坐せられけるに、法印申さば、いまだ若齡ぞかし。其うへ病屈の最中も堅固の所存ありければ、おもひける樣、おとさばわれとこそおとさめ、この封を受用せん事しかるべからず。ゆへは師匠のまさしき嚴師にて坐せらるれば、もだしがたきには似たれども、この禪襟としひさしく田舍法師となり侍れば、あなづらはしくもおぼえ、しかるべくもおもはぬうへ、おほかた門流にをいて聖人の御義に順ぜず。あまさへ堅固あらぬさまに邪道をことゝする御子になられて、別解・別行の人にてましますうへは、今これを許容しがたく、肅淸の所存ありければ斟酌す。まづ請取てⅣ-0384のむ氣色にもてなして掌中にをさめけり。それをさすがみとがめられけるにや、後日に遺恨ありけるとなん。この慈信房は安心などこそ師範と一味ならぬとは申せども、さる一道の先達となられければ、今度東關下向のとき、法印常陸に村田といふあたりを折節ゆきすぎけるに、たゞいま大殿の御濱いでとて、男法師・尼女たなびきて、むしといふ物をたれて、二、三百騎にて鹿嶋へまいらせたまふとて、おびたゞしくのゝめく所をとおりあひけり。大殿と號しけるも、邊土ながらかの堺なれば、先代守殿をこそさも稱すべけれども、すこぶる國中歸伏のいたりにやと不思議にぞあざみける。かゝる時も他の本尊をばもちゐず、無礙光如來の名號ばかりをかけて、一心に念佛せられけるとぞ。下野國高田顯智房と稱するは、眞壁の眞佛ひじりの口決をえ、鸞聖人には孫弟たりながら、御在世にあひたてまつりて面受し申こともありけり。或冬の事なりけるに、爐邊にして對面ありて、聖人と慈信法師と、御顏と顏とさしあはせ、御手と手とゝりくみ、御額を指合て何事にか物を密談あり。其時しも顯智ふと參たれば、兩方へのきたまひけり。顯智大德後日に法印に語示けるは、かゝることをまさしくまいりあひてみたてまつりし。それよりして何ともあれ、慈信御房も子細ある御事なりと[云々]。是をおもⅣ-0385ふに、何樣にも内證外用の德を施して、融通し給ふむねありけるにやと符合し侍り。天竺には頻婆娑羅王・韋提夫人・阿闍世太子・達多尊者・耆婆大臣等の金輪婆羅門種姓までも、あひ猿樂をしてつゐには佛道に引入せしめ、和朝には上宮皇子、守屋大連を誅伐したまひしも、佛法の怨敵たりし違逆の族を退むがために、君臣の戰におよびしにいたるまでも、みな佛の變作なれば、巧方便をめぐらして、かへりて邪見の群衆を化度せんとしたまふ篇あれば、彼慈信房おほよそは聖人の使節として坂東へ差向たてまつられけるに、眞俗につけて、門流の義にちがひてこそ振舞はれけれども、神子・巫女の主領となりしかば、かゝる業ふかきものにちかづきて、かれらをたすけんとにや、あやしみおもふものなり。
第二段
かくて坂東八箇國、奧州・羽州の遠境にいたるまで、處々の露地を巡見して、聖人の勸化のひろくをよびけることをも、いよいよ隨喜し、面々の後弟に拾謁して、相承の宗致の誤なきむねなどたがひに談話しける程に、はからざるに、兩三年の星霜をぞ送ける。さて正應すゑのとし、陽春なかばの比にや、ふたゝび華洛にかへりて、まづこのよしを南都に申ければ、門主よろこび仰られて、いそぎ歸寺をⅣ-0386ぞすゝめたまひける。しかるに行寛法印入滅のよし、かつがつしめされければ、多年提撕の恩もわすれがたく、浮生變滅の悲もいまさら肝に銘じけるまゝに、師匠の再會、死生みちへだゝりぬれば、院家の歸參もなにかせん。さだめなき世には、いつまでかさすらふべきと案ぜられつゝ、たちまちに南京本寺の嚴砌をのがれて、いまよりはひたすらに、東山大谷の禪室をのみぞ、しめ侍ける。

詞 一條前黃門[實材卿]
畫師 攝津守藤原隆昌


Ⅳ-0387慕歸繪第五卷

第一段
鎌倉の唯善房と號せしは、中院少將具親朝臣孫、禪念房眞弟也。幼年のときは少將輔時猶子とし、成人の後は亞相雅忠卿子の儀たりき。仁和寺相應院の守助僧正の門弟にて、大納言阿闍梨弘雅とて、しばらく山臥道をぞうかゞひける。いにしへ法印と唯公とはかりなき法門相論の事ありけり。法印は、往生は宿善開發の機こそ善知識に値てきけば、卽信心歡喜するゆへに報土得生すれと[云々]。善公は、十方衆生とちかひ給へば更宿善の有無を沙汰せず、佛願にあへばかならず往生をうるなり、さてこそ不思議の大願にては侍れと。こゝに法印重て示やう、『大無量壽經』(卷下)には、「若人無善本、不得聞此經、淸淨有戒者、乃獲聞正法、曾更見世尊、則能信此事、謙敬聞奉行、踊躍大歡喜、憍慢弊懈怠、難以信此法、宿世見諸佛、樂聽如是敎」とゝかれたり。宿福深厚の機はすなはちよくこの事を信じ、無宿善のものは憍慢・弊・懈怠にして此法を信じがたしといふことあきらけし。隨て光明寺和尙この文をうけて「若人無善本、不得聞佛名、憍慢弊懈怠、難以信Ⅳ-0388此法、宿世見諸佛、則能信此事、謙敬聞奉行、踊躍大歡喜」(禮讚)と釋せらる。經釋共に歷然、いかでかこれらの明文を消て宿善の有無を沙汰すべからずとはのたまふやと。其時又唯公、さては念佛往生にてはなくて宿善往生と云べしや、如何と。また法印、宿善によて往生するとも申さばこそ宿善往生とは申されめ。宿善の故に知識にあふゆへに、聞其名號信心歡喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し不退轉にいたるとは相傳し侍れ、これをなんぞ宿善往生とはいふべき哉と。そのゝちは互に言說をやめけり。伊勢入道行願とて五條大納言邦綱卿遺孫なりしは、眞俗二諦につけ和漢兩道にむけてもさる有識の仁といはれしが、後日に此事を傳聞て彼相論のむねを是非しけり。伊勢入道詞云、北殿の御法文は經釋をはなれず、道理のさすところ言語絶し畢ぬ。又南殿の御義勢は入道法文也とてあざわらひけりと[云々]。昔は大谷の一室に舅・甥兩方に居住せしにつきて南北の號ありければ、行願はかくいひけるにこそ。
第二段
永仁三歲の冬應鐘中旬の候にや、報恩謝德のためにとて本願寺聖人の御一期の行狀を草案し、二卷の縁起を圖畫せしめしより以來、門流の輩、遠邦も近郭も崇てⅣ-0389賞翫し、若齡も老者も書せて安置す。將又往年にや、『報恩講式』といへるを作せり。是も祖師聖人を嘆德し奉れば、遷化の日は月々の例事としていまもかならず一座を儲て三段を演るものなり。
第三段
すでに人間の榮耀をば耳の外にとをざかり、林山の幽閑をのみ心の中にたのしみければ、極樂の往生をねがひて念佛轉經の營をもはらにすといへども、先哲の往跡をしたひて煙霞風月の興をもおりにふれては心にぞそめける。凡日野は宦學の兩事を以て顯職にも居し溫宦にも浴して身を立る家也といふ事、ほゞさきに見たれども、兼ては和漢の兩篇をも相竝てたしなみ公宴にもしたがふ條は代々の芳躅勿論なり。しかりといへども、三十一字の和語には猶心をいたましめ、幼稚のむかしの日より老體のいまの年にいたるまで、春の曙、秋の夕につけても興を催し、月の夜、雪の朝を待ても宴を設け、時境節をたがへぬ心づかひにて、みづからもたちゐにつけて言の數おほくつもり、賓客の來て志を同するも、したしきうとき、その交たえずなむありける。かゝりければ、正和四のとし、『閑窓集』といふ打聞をするに、思のほかに彼撰歌、仙洞にまいりて叡覽にをよびしより、諸所にきこⅣ-0390えて美談せらる。上下二帖にわけて千首廿卷とせり。その集の奧書に書留る蓄懷の歌にいはく、
かずならで 風の情も くらき身に ひかりをゆるせ 玉津嶋姫
あつめをく 和歌の浦わの 玉ゆへに なみのした草 あらはれやせむ
曩祖相公W有國卿R、「幼少兒童皆聽取、子孫永作廟門塵」と詩をつくりて北野聖廟にたてまつりけるに、朝廷につかへけむ家をいでゝ佛道におもむく身となりにたれば、藤の末葉の片枝までも、いまはをよびがたく、荊の下露の一したゝりともいひがたきに、さすがなを朽ざる曩古のことの葉をしたひて、新なる靈神によみてまいらせけるとて、
わすれじな きけとをしへし 二葉より 十代にかゝれる やどの藤浪W入『閑窓集』R

詞 六條前黃門[有光卿]
畫師 沙彌如心W因幡守藤原隆章R


Ⅳ-0391慕歸繪第六卷

第一段
元亨初年沽洗九日、宿願によて法樂の爲に詩歌を勸てかの廟門にたてまつりしには、親王權女より月卿・雲客・兒童・僧侶にいたるまで、をのをの詩伯十九人、歌仙廿二人[云々]。親疎みな貴重して庶幾し、和漢ともに相兼て結縁するもありけり。歌は三首を題し詩は四韻を賦す。凡數輩の英傑をえらび兩篇に序者を設き。ことさら披講を遂むとては面々廟壇に詣で、當座にも歌をよみ詩をつくり侍しなり。その時の詩歌にいはく、
春日陪北野聖廟同賦春色屬松壖詩一首W題中取韻R
右少辨有正W于時前甲斐守詩序者R
請看麗色屬芳辰 沙壖翠松久視春 累葉垂憐淸