「本師」の版間の差分
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+ | 御開山は『正信念仏偈』で「本師曇鸞梁天子」「本師源空明仏教」と本師とされておられる。また『和讃』では「本師龍樹菩薩は」「本師道綽禅師は」とされておられるのだが、天親菩薩と善導大師については本師とされておられない。意図は不明。 | ||
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2022年1月11日 (火) 21:37時点における最新版
ほんし
Ⅰ 本宗の祖師。 (行巻 P.205, 高僧 P.578,真巻 P.363、二門 P.548)
Ⅱ 根本師仏のこと。 (持名鈔 P.1000)
Ⅲ 根本の導師。 (口伝鈔 P.895, 教行大意 P.952, 講私記 P.1066)
Ⅳ 根本の師。 (法事讃 P.518)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ほんし 本師
Ⅰ 根本の導師の意。一般的には釈尊のこと。『般舟讃』には「まことにこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん」(信巻引文・註 260) 等とある。また、一切の諸仏は阿弥陀仏を師としてさとりをひらいた弟子仏であり、極楽浄土より十方に出現した阿弥陀仏の分身 (末仏) であるから、阿弥陀仏を本師本仏という。『御文章』2帖目第3通には「諸仏・菩薩と申すことは、それ弥陀如来の分身なれば、十方諸仏のためには本師本仏なるがゆゑに」(註 1113)とある。
Ⅱ 一宗の祖師のこと。親鸞は、七高僧の敬称として多く用いている。
御開山は『正信念仏偈』で「本師曇鸞梁天子」「本師源空明仏教」と本師とされておられる。また『和讃』では「本師龍樹菩薩は」「本師道綽禅師は」とされておられるのだが、天親菩薩と善導大師については本師とされておられない。意図は不明。