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「洲渚」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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しゅうしょ/すしょ
 
しゅうしょ/すしょ
  
Ⅰ(しゅうしょ)島のこと。 ([[信巻末#P--255|信巻 P.255]]) 
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Ⅰ(しゅうしょ)島のこと。 ([[信巻末#no81|信巻 P.255]]) 
  
 
Ⅱ(すしょ)なぎさ。海岸。([[化巻末#P--431|化巻 P.431]])
 
Ⅱ(すしょ)なぎさ。海岸。([[化巻末#P--431|化巻 P.431]])
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'''自灯明・法灯明'''<br/>
 
'''自灯明・法灯明'''<br/>
これは釈尊が弟子に述べた最後の言葉とされる。灯明の原語は「ディーパ」であり、ディーパの同音異義語に洲/島がある。インドでは洪水で一面が海のようになることがあり、そのようなときは少し高い場所へ避難するのだが、これがディーパであり洲/島ということである。要するにたよりになる場所という意味なのだがインドの気候風土を知らなかったシナの翻訳家はこれを「灯明」と訳した。これはこれで素晴らしい翻訳なのだが少しく抽象的で、自の灯明と法の灯明の二つがあるように誤解されやすい。洲/島であれば、たよりとすべきものという意味であり同じ意味になる。このように理解すれば、漢訳の自灯明とは、自分を自分たらしめる法、ダルマにたよるということで、法灯明と同じことを表現しているのである。
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自らを拠り所(灯明)とし、法を拠り所(灯明)とせよ。<br />
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これは釈尊が弟子に述べた最後の言葉とされる。灯明の原語は「ディーパ(dīpa)」であり、ディーパの同音異義語に洲/島がある。インドでは洪水で一面が海のようになることがあり、そのようなときは少し高い場所へ避難するのだが、これがディーパであり洲/島ということである。要するにたよりになる場所という意味なのだがインドの気候風土を知らなかったシナの翻訳家はこれを「灯明」と訳した。これはこれで素晴らしい翻訳なのだが少しく抽象的で、自の灯明と法の灯明の二つがあるように誤解されやすい。洲/島であれば、たよりとすべきものという意味であり同じ意味になる。このように理解すれば、漢訳の自灯明とは、自分を自分たらしめる法、ダルマにたよるということで、法灯明と同じことを表現しているのである。
 
そのように自灯明・法灯明とは、御開山の和讃に、
 
そのように自灯明・法灯明とは、御開山の和讃に、
 
:無明長夜の灯炬なり
 
:無明長夜の灯炬なり
 
: 智眼くらしとかなしむな
 
: 智眼くらしとかなしむな
 
: 生死大海の船筏なり
 
: 生死大海の船筏なり
: 罪障おもしとなげかざれ
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: 罪障おもしとなげかざれ ([[正像末和讃#no36|正像 P.606]])
 
と、あるように、精神的な心の闇に閉ざされている者に、光明をあたえていく言葉が南無不可思議光(なんまんだぶ)であった。<br>
 
と、あるように、精神的な心の闇に閉ざされている者に、光明をあたえていく言葉が南無不可思議光(なんまんだぶ)であった。<br>
なんまんだぶを称える行業(行為)は、釈尊の遺偈に随順することであり、仏・法。僧の三宝に帰依することであった。これが大乗の至極である浄土真宗の教法である。
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なんまんだぶを称える行業(行為)は、釈尊の遺偈に随順することであり、仏・法、僧の三宝に帰依することであった。これが大乗の至極である浄土真宗の教法である。
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中村元さんの『ブッダ最後の旅』では、漢訳の自灯明・法灯明の訳を、
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:この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ。
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としている。
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:→[[三宝]]
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以下は中村元さんの『ブッダ最後の旅』から、 <br>
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[[Category:追記]]
「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」<br>
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2022年12月2日 (金) 23:33時点における最新版

しゅうしょ/すしょ

Ⅰ(しゅうしょ)島のこと。 (信巻 P.255) 

Ⅱ(すしょ)なぎさ。海岸。(化巻 P.431)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

自灯明・法灯明
自らを拠り所(灯明)とし、法を拠り所(灯明)とせよ。

これは釈尊が弟子に述べた最後の言葉とされる。灯明の原語は「ディーパ(dīpa)」であり、ディーパの同音異義語に洲/島がある。インドでは洪水で一面が海のようになることがあり、そのようなときは少し高い場所へ避難するのだが、これがディーパであり洲/島ということである。要するにたよりになる場所という意味なのだがインドの気候風土を知らなかったシナの翻訳家はこれを「灯明」と訳した。これはこれで素晴らしい翻訳なのだが少しく抽象的で、自の灯明と法の灯明の二つがあるように誤解されやすい。洲/島であれば、たよりとすべきものという意味であり同じ意味になる。このように理解すれば、漢訳の自灯明とは、自分を自分たらしめる法、ダルマにたよるということで、法灯明と同じことを表現しているのである。 そのように自灯明・法灯明とは、御開山の和讃に、

無明長夜の灯炬なり
 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり
 罪障おもしとなげかざれ (正像 P.606)

と、あるように、精神的な心の闇に閉ざされている者に、光明をあたえていく言葉が南無不可思議光(なんまんだぶ)であった。
なんまんだぶを称える行業(行為)は、釈尊の遺偈に随順することであり、仏・法、僧の三宝に帰依することであった。これが大乗の至極である浄土真宗の教法である。

中村元さんの『ブッダ最後の旅』では、漢訳の自灯明・法灯明の訳を、

この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ。

としている。

三宝