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 第1の安心の段には、自力のこころを離れて阿弥陀如来の本願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他の安心が示されている。<br />
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==領解文==
 
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                       [本願寺釈[[法如]](花押)
 
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===教誡===
 
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 [右領解出言の文は、信証院蓮如師の定めおかせらるるところなり。真宗念仏行者、<span id="P--1228"></span> すでに一念帰命、信心発得せる領解の相状なり。このゆゑに古今一宗の道俗、時々仏祖前にしてこの安心を出言し、みづからの領解の謬りなきことを敬白するなり。
 
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このゆゑにいまひめおきし蓮師(蓮如)の真蹟を模写し印刻して、家ごとに伝へ、戸ごとに授けて、永く浄土真宗一味の正意を得せしめんと思ふものなり。]
 
このゆゑにいまひめおきし蓮師(蓮如)の真蹟を模写し印刻して、家ごとに伝へ、戸ごとに授けて、永く浄土真宗一味の正意を得せしめんと思ふものなり。]
  
  [[[天明七]]丁未年四月        釈[[文如]]これを識す](花押
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  [[[天明七]]丁未年四月        釈[[文如]]これを識す](花押)

2023年1月12日 (木) 15:50時点における最新版

 本書は、真宗教義を会得したままを口に出して陳述するように第8代宗主蓮如上人が作られたものとされ、山科本願寺落成の頃から読むようになったといわれている。大谷派では『改悔文』とも称する。内容は簡潔で、一般の人にも理解されるように平易に記されたものではあるが、当時の異安心や秘事法門に対して、浄土真宗の正義をあらわしたものである。

 第1の安心の段には、自力のこころを離れて阿弥陀如来の本願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他の安心が示されている。
 第2の報謝の段には、信の一念に往生が定まるから、それ以後の念仏は報恩にほかならないという、いわゆる称名報恩の義が示されている。したがって、この第1・第2の両段において、信心正因・称名報恩の宗義が領解されたことになる。
 第3の師徳の段には、上記の教えを教示し伝持された親鸞聖人や善知識の恩徳を謝すべきことが述べられている。

 第4の法度の段には、真宗念仏者の生活の心がまえが示され、『御文章』などに定められた「おきて」にしたがって生活すべきことが述べられている。


領解文

 もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。


                       [本願寺釈法如(花押)

教誡

 [右領解出言の文は、信証院蓮如師の定めおかせらるるところなり。真宗念仏行者、 すでに一念帰命、信心発得せる領解の相状なり。このゆゑに古今一宗の道俗、時々仏祖前にしてこの安心を出言し、みづからの領解の謬りなきことを敬白するなり。 しかるに、そのあひだ後生の一大事を軽忽し、みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解もなく、またこの領解文をも記得せざる類あり。あるいは記得し出言しながら、心口各異にして慚愧せざるのものあり。はなはだ悲歎すべきところなり。こひねがはくは一宗の道俗、この出言のごとく、一念帰命の本源をあやまらず如実相応して、すみやかに一大事の往生を遂ぐべきものなり。 このゆゑにいまひめおきし蓮師(蓮如)の真蹟を模写し印刻して、家ごとに伝へ、戸ごとに授けて、永く浄土真宗一味の正意を得せしめんと思ふものなり。]

  [天明七丁未年四月        釈文如これを識す](花押)