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高田派10代。9代定顕の子という。寛正5年(1464)に継職した。当初は本願寺蓮如と親しかったが、のちに門徒の帰属や寛正の法難への対応、宗義の理解などをめぐり疎遠になった。文明6年(1474)頃には伊勢国一身田に無量寿院 (のち高田派本山) を建立した。文亀2年(1502)、寺務を応真に譲った。その後、応真が専修寺住持を辞退したため常磐井宮から真智を迎えて法嗣とした。精力的な教化により北陸・東海・近畿に多くの門徒を得たほか、永正元年(1504)、永正規則を定めるなど、高田教団の体制の整備に努め、高田派中興とされる。著書に『顕正流義鈔』などがある。 | 高田派10代。9代定顕の子という。寛正5年(1464)に継職した。当初は本願寺蓮如と親しかったが、のちに門徒の帰属や寛正の法難への対応、宗義の理解などをめぐり疎遠になった。文明6年(1474)頃には伊勢国一身田に無量寿院 (のち高田派本山) を建立した。文亀2年(1502)、寺務を応真に譲った。その後、応真が専修寺住持を辞退したため常磐井宮から真智を迎えて法嗣とした。精力的な教化により北陸・東海・近畿に多くの門徒を得たほか、永正元年(1504)、永正規則を定めるなど、高田教団の体制の整備に努め、高田派中興とされる。著書に『顕正流義鈔』などがある。 | ||
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2023年10月30日 (月) 16:25時点における版
しんね 真慧 (1434-1512)
高田派10代。9代定顕の子という。寛正5年(1464)に継職した。当初は本願寺蓮如と親しかったが、のちに門徒の帰属や寛正の法難への対応、宗義の理解などをめぐり疎遠になった。文明6年(1474)頃には伊勢国一身田に無量寿院 (のち高田派本山) を建立した。文亀2年(1502)、寺務を応真に譲った。その後、応真が専修寺住持を辞退したため常磐井宮から真智を迎えて法嗣とした。精力的な教化により北陸・東海・近畿に多くの門徒を得たほか、永正元年(1504)、永正規則を定めるなど、高田教団の体制の整備に努め、高田派中興とされる。著書に『顕正流義鈔』などがある。