「浄土をねがふ…」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | 浄土宗全書第3巻p.935の『伝通記糅鈔』から該当部を引用。[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch/search/image.php?lineno=J03_0935A01] | ||
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+ | 若其劣機等者 於此劣機中 尚可有其差異 | ||
+ | :もしその劣機等は、この劣機の中に於いて、なおその差異あるべし。 | ||
+ | 若不能頓捨 既致染病不須醫療祭祠 只歎存命偏待佛迎 | ||
+ | :もし、頓捨することあたわず、既に染病に致りて、医療・祭祠をもちいず、ただ存命を嘆きて、ひとえに仏迎を待つなり。 | ||
+ | 高祖上人云 待曉天商客 驚鷄鳴猶喜 欣淨土行人得病惱偏樂 割注 蓋此謂也 | ||
+ | :高祖上人(法然聖人)の云く、暁天を待つ商客は、鶏鳴に驚きてなお<kana>喜(よろこぶ)</kana>なり<ref>先を急ぐ行商人は、泊まった宿で、朝(暁天)、突然聞こえるにわとりの声(鶏鳴)に、驚きながらも夜が明けたことを喜ぶということ。死なねばならないことに驚きながらも、死は浄土に往生する新しいいのちの始まりであると喜べるという意。</ref>。浄土を欣う行人は病悩を得てひとえに楽しむ。{割注矣}けだし此の謂なり。 | ||
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+ | 法然聖人は「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし。」[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/16/page/336 (*)](『法然上人行状画図』第二十一巻)と、生と死を等分に見ていくバランスのとれた方だったので、「病悩を得てひとえに楽しむ」のような一文は、当時の[[後世者]]の風聞(高野聖の伝承)が紛れ込んだものだろうと梯實圓和上に聞いたことがある。たとえは、鎌倉後期の成立とされる『一言芳談』には、明遍僧都(1142-1224)の弟子であった松陰の顕性房の述懐として、 | ||
+ | :我は遁世の始よりして、疾(と)く死(しな)ばやと云事を習しなり。さればこそ、三十余年間、ならひし故に今は片時も忘れず。とく死たければ、すこしも延たる様なれば、むねがつぶれて、わびしき也。(『一言芳談』一〇二) | ||
+ | などとある。<br /> | ||
+ | このような「ただ存命を嘆きて、ひとえに仏迎を待つなり」という往生浄土のみを希求する当時の[[後世者]]の言動が、『歎異抄』九条での唯円の、 | ||
+ | :「またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。 | ||
+ | という「いそぎ浄土へまゐりたきこころ」の問につながるのであろう。当時の後世者の、<kana>疾(と)</kana>く浄土へ参りたいという厭離穢土の厭世観が強く、現在の生を否定する偏執にも似た浄土教の風潮ゆえに唯円の疑問が生じたのであろう。 明治期の真宗大谷派の教学をリードした清沢満之師(1863~1903)は「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。」といったそうだが生と死を等分に見ていくのが浄土真宗である。生も我らなり、死もまた我らなりと、「念仏衆生摂取不捨(念仏の衆生を摂取して捨てず)」と、なんまんだぶを称える上で、生と死を同じ重さで領解しておられたのが、法然聖人であり御開山であった。もっとも最近の浄土真宗の坊さんは、生まれたからには死ぬのは必然であるということを忘れ、世俗に迎合して死ぬという意味を忘れて生き方のハウツーのみを強調するするだけなので困ったものではある。 | ||
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2024年3月26日 (火) 11:45時点における最新版
じょうど を ねがふ…
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
浄土宗全書第3巻p.935の『伝通記糅鈔』から該当部を引用。[1]
若其劣機等者 於此劣機中 尚可有其差異
- もしその劣機等は、この劣機の中に於いて、なおその差異あるべし。
若不能頓捨 既致染病不須醫療祭祠 只歎存命偏待佛迎
- もし、頓捨することあたわず、既に染病に致りて、医療・祭祠をもちいず、ただ存命を嘆きて、ひとえに仏迎を待つなり。
高祖上人云 待曉天商客 驚鷄鳴猶喜 欣淨土行人得病惱偏樂 割注 蓋此謂也
- 高祖上人(法然聖人)の云く、暁天を待つ商客は、鶏鳴に驚きてなお
喜 なり[1]。浄土を欣う行人は病悩を得てひとえに楽しむ。{割注矣}けだし此の謂なり。
- 註:
法然聖人は「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし。」(*)(『法然上人行状画図』第二十一巻)と、生と死を等分に見ていくバランスのとれた方だったので、「病悩を得てひとえに楽しむ」のような一文は、当時の後世者の風聞(高野聖の伝承)が紛れ込んだものだろうと梯實圓和上に聞いたことがある。たとえは、鎌倉後期の成立とされる『一言芳談』には、明遍僧都(1142-1224)の弟子であった松陰の顕性房の述懐として、
- 我は遁世の始よりして、疾(と)く死(しな)ばやと云事を習しなり。さればこそ、三十余年間、ならひし故に今は片時も忘れず。とく死たければ、すこしも延たる様なれば、むねがつぶれて、わびしき也。(『一言芳談』一〇二)
などとある。
このような「ただ存命を嘆きて、ひとえに仏迎を待つなり」という往生浄土のみを希求する当時の後世者の言動が、『歎異抄』九条での唯円の、
- 「またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
という「いそぎ浄土へまゐりたきこころ」の問につながるのであろう。当時の後世者の、
註
- ↑ 先を急ぐ行商人は、泊まった宿で、朝(暁天)、突然聞こえるにわとりの声(鶏鳴)に、驚きながらも夜が明けたことを喜ぶということ。死なねばならないことに驚きながらも、死は浄土に往生する新しいいのちの始まりであると喜べるという意。