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真諦と俗諦。ここでは、浄土の種々の荘厳相が有色有形のものであることを俗諦といい、しかもその荘厳相が真如法性の理にかなって無相であることを真諦という。(行巻 P.159)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:真俗二諦
- 中論卷第四 四諦品(*)
諸仏依二諦 為衆生説法
一以世俗諦 二第一義諦
若人不能知 分別於二諦
則於深仏法 不知真実義
- 諸仏は二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう、
- 一には世俗諦を以って、二には第一義諦なり。
- 若し人、二諦を分別するを知る能わざれば、
- 則ち深き仏法に於ける、真実の義を知らず。
世俗諦者。一切法性空。而世間顛倒故生虚妄法。於世間是実。
- 世俗諦とは、一切の法性は空なるも、世間は顛倒の故に、虚妄の法を生じ、世間に於いては是れ実なり。
諸賢聖真知顛倒性。故知一切法皆空無生。於聖人是第一義諦名為実。
- 諸の賢聖は、真に顛倒の性を知るが故に、一切の法は皆空にして、無生なるを知り、聖人に於いては、是の第一義諦を名づけて、実と為す。
諸仏依是二諦。而為衆生説法。
- 諸仏は、是の二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう。
若人不能如実分別二諦。則於甚深仏法。不知実義。
- 若し人、如実に二諦を分別する能わざれば、則ち甚深の仏法に於いて、実義を知らず。
若謂一切法不生是第一義諦。不須第二俗諦者。是亦不然。
- 若し、一切法の不生なる、是れ第一義諦にして、第二の俗諦を須いず、と謂わば、是れも亦た然らず。.
何以故
若不依俗諦 不得第一義
不得第一義 則不得涅槃
- 何を以っての故に、
- 若し俗諦に依らずんば、第一義を得ず、
- 第一義を得ずんば、則ち涅槃を得ず。
第一義皆因言説。 言説是世俗。是故若不依世俗。第一義則不可説。
- 第一義は皆、言説に因り、言説は、是れ世俗なり。是の故に、世俗に依らざれば、第一義は、則ち説くべからず。
若不得第一義。云何得至涅槃。
- 若し第一義を得ざれば、云何が涅槃に至るを得ん。
是故諸法雖無生。而有二諦。
- 是の故に、諸法は無生なりと雖も、二諦有り。
→真俗二諦