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「補註15」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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 方便とは、仏が<ruby><rb>衆生</rb><rp>(</rp><rt>しゅじょう</rt><rp>)</rp></ruby>を救済するときに用いられるたくみな方法(てだて)をいう。その中に真実と<ruby><rb>権仮</rb><rp>(</rp><rt>ごんけ</rt><rp>)</rp></ruby>とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、<ruby><rb>随</rb><rp>(</rp><rt>ずい</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>自意</rb><rp>(</rp><rt>じい</rt><rp>)</rp></ruby>の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を<ruby><rb>済度</rb><rp>(</rp><rt>さいど</rt><rp>)</rp></ruby>されるというので、<ruby><rb>善巧</rb><rp>(</rp><rt>ぜんぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>方便ともいう。阿弥陀仏を方便<ruby><rb>法身</rb><rp>(</rp><rt>ほっしん</rt><rp>)</rp></ruby>というときの方便がそれである。
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権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような<ruby><rb>随他意</rb><rp>(</rp><rt>ずいたい</rt><rp>)</rp></ruby>の法門を権仮方便という。「<ruby><rb>方便</rb><rp>(</rp><rt>ほうべん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>化身土</rb><rp>(</rp><rt>けしんど</rt><rp>)</rp></ruby>」といわれるときの方便がそれである。
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 阿弥陀仏の第十九願に応じて説かれた釈尊の教えが『<ruby><rb>観経</rb><rp>(</rp><rt>かんぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>』であり、第二十願に応じて説かれた教えが『<ruby><rb>小経</rb><rp>(</rp><rt>しょうきょう</rt><rp>)</rp></ruby>』である。『観経』に説かれた教えは、<ruby><rb>定善</rb><rp>(</rp><rt>じょうぜん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>散善</rb><rp>(</rp><rt>さんぜん</rt><rp>)</rp></ruby>といういろいろな<ruby><rb>善根</rb><rp>(</rp><rt>ぜんごん</rt><rp>)</rp></ruby>によって阿弥陀仏の浄土に往生するというものであり、『小経』に説かれた教えは、一心不乱の自力称名念仏によって往生するというものである。第十九願・第二十願の教えが、第十八願の教えに引き入れようとするものであるのと同じく、『観経』、『小経』を説かれた釈尊の本意は、他力念仏の教えを説くことにある。したがって表面に説かれた教えは、前に述べたようなものであるが、その底を流れる釈尊の真意が、部分的に表面にあらわれている。『観経』に、「なんぢよくこの語を<ruby><rb>持</rb><rp>(</rp><rt>たも</rt><rp>)</rp></ruby>て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の<ruby><rb>名</rb><rp>(</rp><rt>みな</rt><rp>)</rp></ruby>を持てとなり」とあり、『小経』に「難信の法」とあるのがその例である。このように表面に説かれた自力の教えを「<ruby><rb>顕説</rb><rp>(</rp><rt>けんぜつ</rt><rp>)</rp></ruby>」といい、底に流れる他力の教えを「<ruby><rb>隠彰</rb><rp>(</rp><rt>おんしょう</rt><rp>)</rp></ruby>」という。これによって『観経』、『小経』には、隠顕の両意があるといわれる。こうして浄土三部経は、顕説からいえば真実教と方便教の違いがあるが、隠彰の実義からいえば三経ともに第十八願の真実の法門が説かれていることがわかる。
  
 
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2005年10月19日 (水) 07:35時点における版

15 方便(ほうべん)隠顕(おんけん)

 方便とは、仏が衆生(しゅじょう)を救済するときに用いられるたくみな方法(てだて)をいう。その中に真実と権仮(ごんけ)とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、(ずい)自意(じい)の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度(さいど)されるというので、善巧(ぜんぎょう)方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身(ほっしん)というときの方便がそれである。

権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意(ずいたい)の法門を権仮方便という。「方便(ほうべん)化身土(けしんど)」といわれるときの方便がそれである。

 親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九(じゅうく)願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向(えこう)行信(ぎょうしん)によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎(らいこう)して方便化土(けど)に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道(しょうどう)門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

 阿弥陀仏の第十九願に応じて説かれた釈尊の教えが『観経(かんぎょう)』であり、第二十願に応じて説かれた教えが『小経(しょうきょう)』である。『観経』に説かれた教えは、定善(じょうぜん)散善(さんぜん)といういろいろな善根(ぜんごん)によって阿弥陀仏の浄土に往生するというものであり、『小経』に説かれた教えは、一心不乱の自力称名念仏によって往生するというものである。第十九願・第二十願の教えが、第十八願の教えに引き入れようとするものであるのと同じく、『観経』、『小経』を説かれた釈尊の本意は、他力念仏の教えを説くことにある。したがって表面に説かれた教えは、前に述べたようなものであるが、その底を流れる釈尊の真意が、部分的に表面にあらわれている。『観経』に、「なんぢよくこの語を(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の(みな)を持てとなり」とあり、『小経』に「難信の法」とあるのがその例である。このように表面に説かれた自力の教えを「顕説(けんぜつ)」といい、底に流れる他力の教えを「隠彰(おんしょう)」という。これによって『観経』、『小経』には、隠顕の両意があるといわれる。こうして浄土三部経は、顕説からいえば真実教と方便教の違いがあるが、隠彰の実義からいえば三経ともに第十八願の真実の法門が説かれていることがわかる。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。