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 本書は、『俗姓の御文』とも称される。これは宗祖親鸞聖人の御正忌報恩講に際して示された教語である。
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{{Kaisetu| 本書は、『俗姓の御文』とも称される。これは宗祖親鸞聖人の御正忌報恩講に際して示された教語である。
 
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 本文は五段に分かれる。第一段には、宗祖の俗姓を明かし、聖人は藤原氏で、後長岡の丞相(内麿公)の末孫、皇太后宮の大進有範の子であると説かれている。
 
 本文は五段に分かれる。第一段には、宗祖の俗姓を明かし、聖人は藤原氏で、後長岡の丞相(内麿公)の末孫、皇太后宮の大進有範の子であると説かれている。
 
 
 第二段は、聖人は阿弥陀仏の化身であり、あるいは曇鸞大師の再誕であって、ただびとではないといい、九歳で出家し、楞厳横川の末流を伝え、天台宗の碩学となり、二十九歳の時法然上人の禅室に至り、上足の弟子となり、真宗一流を汲み、専修専念の義を立て、凡夫直入の真心をあらわされ、在家の愚人を浄土に往生するよう勧められたことを記されている。
 
 第二段は、聖人は阿弥陀仏の化身であり、あるいは曇鸞大師の再誕であって、ただびとではないといい、九歳で出家し、楞厳横川の末流を伝え、天台宗の碩学となり、二十九歳の時法然上人の禅室に至り、上足の弟子となり、真宗一流を汲み、専修専念の義を立て、凡夫直入の真心をあらわされ、在家の愚人を浄土に往生するよう勧められたことを記されている。
 
 
 第三段は、十一月二十八日の聖人遷化の御正忌に報謝の志を運ばないものは木石にも等しいと誡められている。
 
 第三段は、十一月二十八日の聖人遷化の御正忌に報謝の志を運ばないものは木石にも等しいと誡められている。
 
 
 第四段は、報恩謝徳をなすことこそ、報恩講の眼目であるが、もし未安心であるならば、真の報謝にはならないことを、ねんごろに教示し、真の正信念仏者になるのでなければ、祖師の御恩に報いることにはならないと説かれている。
 
 第四段は、報恩謝徳をなすことこそ、報恩講の眼目であるが、もし未安心であるならば、真の報謝にはならないことを、ねんごろに教示し、真の正信念仏者になるのでなければ、祖師の御恩に報いることにはならないと説かれている。
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 第五段は、真実信心の人の少ないことを嘆きつつ、一念帰命の真実信心を勧められている。}}
  
 第五段は、真実信心の人の少ないことを嘆きつつ、一念帰命の真実信心を勧められている。
 
  
 
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それよりこのかた[[楞厳横川の末流]]をつたへ、天台宗の[[碩学]]となりたまひぬ。そののち二十九歳にして、はじめて源空聖人の禅室にまゐり、[[上足の弟子]]となり、真宗一流を汲み、専修専念の義を立て、すみやかに[[凡夫直入]]の真心をあらはし、在家止住の愚人ををしへて、報土往生をすすめましましけり。
 
それよりこのかた[[楞厳横川の末流]]をつたへ、天台宗の[[碩学]]となりたまひぬ。そののち二十九歳にして、はじめて源空聖人の禅室にまゐり、[[上足の弟子]]となり、真宗一流を汲み、専修専念の義を立て、すみやかに[[凡夫直入]]の真心をあらはし、在家止住の愚人ををしへて、報土往生をすすめましましけり。
  
【2】 そもそも今月二十八日は、祖師聖人[[遷化]]の御正忌として、毎年をいはず、親疎をきらはず、古今の行者、この御正忌を存知せざる輩あるべからず。これによりて[[当流]]にその名をかけ、その信心を獲得したらん行者、この御正忌を<span id="P--1222"></span>もつて報謝の志を運ばざらん行者においては、まことにもつて木石にひとしからんものなり。しかるあひだ、かの御恩徳のふかきことは、[[迷盧八万の頂]]、[[蒼溟三千の底]]にこえすぎたり、報ぜずはあるべからず、謝せずはあるべからざるものか。このゆゑに毎年の例時として、一七ケ日のあひだ、[[かたのごとく]]報恩謝徳のために無二の勤行をいたすところなり。この一七ケ日報恩講の砌にあたりて、[[門葉]]のたぐひ国郡より来集、いまにおいてその退転なし。しかりといへども未安心の行者にいたりては、いかでか報恩謝徳の儀これあらんや。しかのごときの輩は、この砌において仏法の信・不信をあひたづねてこれを聴聞してまことの信心を決定すべくんば、真実真実、聖人(親鸞)報謝の懇志にあひかなふべきものなり。
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【2】 そもそも[[今月]]二十八日は、祖師聖人[[遷化]]の御正忌として、毎年をいはず、親疎をきらはず、古今の行者、この御正忌を存知せざる輩あるべからず。これによりて[[当流]]にその名をかけ、その信心を獲得したらん行者、この御正忌を<span id="P--1222"></span>もつて報謝の志を運ばざらん行者においては、まことにもつて木石にひとしからんものなり。しかるあひだ、かの御恩徳のふかきことは、[[迷盧八万の頂]]、[[蒼溟三千の底]]にこえすぎたり、報ぜずはあるべからず、謝せずはあるべからざるものか。このゆゑに毎年の例時として、一七ケ日のあひだ、[[かたのごとく]]報恩謝徳のために無二の勤行をいたすところなり。この一七ケ日報恩講の砌にあたりて、[[門葉]]のたぐひ国郡より来集、いまにおいてその退転なし。しかりといへども未安心の行者にいたりては、いかでか報恩謝徳の儀これあらんや。しかのごときの輩は、この砌において仏法の信・不信をあひたづねてこれを聴聞してまことの信心を決定すべくんば、真実真実、聖人(親鸞)報謝の[[懇志]]にあひかなふべきものなり。
  
【3】 あはれなるかなや、それ聖人の御往生は年忌とほくへだたりて、すでに一百余歳の[[星霜]]を送るといへども、御遺訓ますますさかんにして、教行信証の名義、いまに眼前にさへぎり、[[人口]]にのこれり。たふとむべし信ずべし。これについて[[当時]]真宗の行者のなかにおいて、真実信心を獲得せしむるひと、これすくなし。
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【3】 あはれなるかなや、それ聖人の御往生は年忌とほくへだたりて、すでに[[一百余歳の星霜]]を送るといへども、御遺訓ますますさかんにして、教行信証の名義、いまに眼前にさへぎり、[[人口]]にのこれり。たふとむべし信ずべし。これについて[[当時]]真宗の行者のなかにおいて、真実信心を獲得せしむるひと、これすくなし。
 
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2016年12月20日 (火) 22:16時点における最新版

 本書は、『俗姓の御文』とも称される。これは宗祖親鸞聖人の御正忌報恩講に際して示された教語である。

 本文は五段に分かれる。第一段には、宗祖の俗姓を明かし、聖人は藤原氏で、後長岡の丞相(内麿公)の末孫、皇太后宮の大進有範の子であると説かれている。  第二段は、聖人は阿弥陀仏の化身であり、あるいは曇鸞大師の再誕であって、ただびとではないといい、九歳で出家し、楞厳横川の末流を伝え、天台宗の碩学となり、二十九歳の時法然上人の禅室に至り、上足の弟子となり、真宗一流を汲み、専修専念の義を立て、凡夫直入の真心をあらわされ、在家の愚人を浄土に往生するよう勧められたことを記されている。  第三段は、十一月二十八日の聖人遷化の御正忌に報謝の志を運ばないものは木石にも等しいと誡められている。  第四段は、報恩謝徳をなすことこそ、報恩講の眼目であるが、もし未安心であるならば、真の報謝にはならないことを、ねんごろに教示し、真の正信念仏者になるのでなければ、祖師の御恩に報いることにはならないと説かれている。

 第五段は、真実信心の人の少ないことを嘆きつつ、一念帰命の真実信心を勧められている。


御俗姓

【1】 それ祖師聖人(親鸞)の俗姓をいへば、藤氏として後長岡の丞相[内麿公の]末孫、皇太后宮の大進有範の子なり。また本地をたづぬれば、弥陀如来の化身と号し、あるいは曇鸞大師の再誕ともいへり。しかればすなはち生年九歳の春のころ、慈鎮和尚の門人につらなり、出家得度してその名を範宴少納言の公と号す。 それよりこのかた楞厳横川の末流をつたへ、天台宗の碩学となりたまひぬ。そののち二十九歳にして、はじめて源空聖人の禅室にまゐり、上足の弟子となり、真宗一流を汲み、専修専念の義を立て、すみやかに凡夫直入の真心をあらはし、在家止住の愚人ををしへて、報土往生をすすめましましけり。

【2】 そもそも今月二十八日は、祖師聖人遷化の御正忌として、毎年をいはず、親疎をきらはず、古今の行者、この御正忌を存知せざる輩あるべからず。これによりて当流にその名をかけ、その信心を獲得したらん行者、この御正忌をもつて報謝の志を運ばざらん行者においては、まことにもつて木石にひとしからんものなり。しかるあひだ、かの御恩徳のふかきことは、迷盧八万の頂蒼溟三千の底にこえすぎたり、報ぜずはあるべからず、謝せずはあるべからざるものか。このゆゑに毎年の例時として、一七ケ日のあひだ、かたのごとく報恩謝徳のために無二の勤行をいたすところなり。この一七ケ日報恩講の砌にあたりて、門葉のたぐひ国郡より来集、いまにおいてその退転なし。しかりといへども未安心の行者にいたりては、いかでか報恩謝徳の儀これあらんや。しかのごときの輩は、この砌において仏法の信・不信をあひたづねてこれを聴聞してまことの信心を決定すべくんば、真実真実、聖人(親鸞)報謝の懇志にあひかなふべきものなり。

【3】 あはれなるかなや、それ聖人の御往生は年忌とほくへだたりて、すでに一百余歳の星霜を送るといへども、御遺訓ますますさかんにして、教行信証の名義、いまに眼前にさへぎり、人口にのこれり。たふとむべし信ずべし。これについて当時真宗の行者のなかにおいて、真実信心を獲得せしむるひと、これすくなし。 ただ人目仁義ばかりに名聞のこころをもつて報謝と号せば、いかなる志をいたすといふとも、一念帰命の真実の信心を決定せざらんひとびとは、その所詮あるべからず。まことに「水入りて垢おちず」といへるたぐひなるべきか。これによりてこの一七ケ日報恩講中において、他力本願のことわりをねんごろにききひらき、専修一向の念仏の行者にならんにいたりては、まことに今月、聖人(親鸞)の御正日の素意にあひかなふべし。これしかしながら、真実真実、報恩謝徳の御仏事となりぬべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


 [時に文明九年十一月初めのころ、にはかに報恩謝徳のためにを染めこれを記すものなり。]