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「浄土論註 (七祖)」の版間の差分

提供: WikiArc

 
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*パイプの裏技を使って七祖の部分を非表示にしました。
 
*パイプの裏技を使って七祖の部分を非表示にしました。
 
**http://ja.wikipedia.org/wiki/Help:ページの編集#.E3.83.AA.E3.83.B3.E3.82.AF
 
**http://ja.wikipedia.org/wiki/Help:ページの編集#.E3.83.AA.E3.83.B3.E3.82.AF
**最後に|(パイプ)を置くことで、保存時に半角かっこの中が自動的に隠されます。<nowiki>[[浄土論註 (七祖)|浄土論註]]</nowiki> [[利用者:林遊|林遊]] 2009年8月30日 (日) 15:13 (JST)
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**最後に|(パイプ)を置くことで、保存時に半角かっこの中が自動的に隠されます。<nowiki>[[浄土論註 (七祖)|]]</nowiki>としておけば[[浄土論註 (七祖)|浄土論註]]に勝手に書換えてくれます。 [[利用者:林遊|林遊]] 2009年8月30日 (日) 15:13 (JST)
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*wikiの長いURLをTinyURLのサービスを利用して短くするようにしてみました。汎用ですからどんなURLでもOKです。[http://fukui.hongwan.net/script/tinyurl.php ショートURL]
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*上記のサービスは漢字urlを処理できないので自前で作りました。[http://fukui.hongwan.net/VartualURL/ ショートURL]
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科段の名称は、相馬一意師の『往生論註講読』を参照した。
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== ★注意 ==
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赤字の実リンクは書き込まないでください。青字のリンク先に論註のページをリンクだけして下さい。
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赤字の部分は青字の訂正が終了したらプログラムで一気にアップロードします。
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「般若」といふは、如に達する慧の名なり。「方便」といふは、権に通ずる 智の称なり。如に達すればすなはち心行寂滅なり。権に通ずればすなはちつ ぶさに衆機を省みる。 機を省みる智、つぶさに応じてしかも無知なり。寂滅の慧、また無知にしてつぶさに省みる。 しかればすなはち智慧と方便とあひ縁じて動じ、あひ縁じて静なり。動の静を失せざることは智慧の功なり。 静の動を廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便とは般若を摂取し、般若は方便を摂取す。
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般若とは絶対の真実としての如(ありのまま)に到る智慧であり、方便とは世間相対の現実をもれなく知る智慧である。絶対の真実に到る智慧は、思慮判断である分別知が絶えて寂静であり、寂静の智慧は無知であるまま、しかも世間をもれなく明らかに知る。一方、世間相対の現実をもれなく知る智慧は、つぶさに世間を知るままに無知、すなわち無分別知である。
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このように如に到る般若の智慧手現実の種々相を知る世間知としての方便は、別々に離れてあるのではない。般若の智慧はそのまま方便の智慧としてはらき、方便の智慧は般若の智慧を失わず、静すなわち心行寂滅である。このように動であってしかも静を失っていないのは般若の功であり、静であってしかも動を廃していないのは方便の力であって、動にして静、静にして動である。

2011年11月10日 (木) 20:39時点における最新版

ちょうど論註を読んでたのでアップしたけど、書式の詳しい説明があれば、手直しができます。マイコン坊主 2009年8月30日 (日) 01:53 (JST)

  • 書式については現在何も考えていません。とりあえずはエディタで。を改行に変換したり色々 (笑
  • パイプの裏技を使って七祖の部分を非表示にしました。
  • wikiの長いURLをTinyURLのサービスを利用して短くするようにしてみました。汎用ですからどんなURLでもOKです。ショートURL
  • 上記のサービスは漢字urlを処理できないので自前で作りました。ショートURL

科段の名称は、相馬一意師の『往生論註講読』を参照した。

★注意

赤字の実リンクは書き込まないでください。青字のリンク先に論註のページをリンクだけして下さい。

赤字の部分は青字の訂正が終了したらプログラムで一気にアップロードします。


「般若」といふは、如に達する慧の名なり。「方便」といふは、権に通ずる 智の称なり。如に達すればすなはち心行寂滅なり。権に通ずればすなはちつ ぶさに衆機を省みる。 機を省みる智、つぶさに応じてしかも無知なり。寂滅の慧、また無知にしてつぶさに省みる。 しかればすなはち智慧と方便とあひ縁じて動じ、あひ縁じて静なり。動の静を失せざることは智慧の功なり。 静の動を廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便とは般若を摂取し、般若は方便を摂取す。

般若とは絶対の真実としての如(ありのまま)に到る智慧であり、方便とは世間相対の現実をもれなく知る智慧である。絶対の真実に到る智慧は、思慮判断である分別知が絶えて寂静であり、寂静の智慧は無知であるまま、しかも世間をもれなく明らかに知る。一方、世間相対の現実をもれなく知る智慧は、つぶさに世間を知るままに無知、すなわち無分別知である。

このように如に到る般若の智慧手現実の種々相を知る世間知としての方便は、別々に離れてあるのではない。般若の智慧はそのまま方便の智慧としてはらき、方便の智慧は般若の智慧を失わず、静すなわち心行寂滅である。このように動であってしかも静を失っていないのは般若の功であり、静であってしかも動を廃していないのは方便の力であって、動にして静、静にして動である。