「一法句」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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「何が故ぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏菩薩に二種の法身あり。一には[[法性法身]]、二には[[方便法身]]なり。法性法身に由りて方便法身を生ず。方便法身に由りて法性法身を出だす。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。この故に広略相入して、統ぬるに法の名を以つてす。」([[顕浄土真実証文類#広略相入を明かす|二四九頁]])。 | 「何が故ぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏菩薩に二種の法身あり。一には[[法性法身]]、二には[[方便法身]]なり。法性法身に由りて方便法身を生ず。方便法身に由りて法性法身を出だす。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。この故に広略相入して、統ぬるに法の名を以つてす。」([[顕浄土真実証文類#広略相入を明かす|二四九頁]])。 | ||
− | + | いま浄土の広と一法句の略との相入が実現されるのは、仏に法性法身と方便法身との二種類の法身があるからであるという。この二つの法身は異なったものではあるけれども、しかも分けることのできないものであり、一つのものといえるけれども、しかし全く同じというとはできない。この二つの法身はこのようなものであるが、これをその根柢において統一するものが一法句である。一法句を土台として法性法身から方便法身が生まれ、また方便法身によって法性法身が明らかになるというのである。それでこのことをより一層明らかにするために、まず根柢をなしている一法句がいかなるものであるかを明白にしなければならない、これについては次のように述べられている。 | |
「一法句といふは謂く、清浄句なり。清浄句といふは謂く、真実の智慧、無為法身なるが故に 」とのたまへり。この三句は展転してあひ入る。なんの義に依りてか、これを名づけて法とする。 清浄を以つての故に、何の義に依りてか、名づけて清浄とする。真実の智慧、無為法身なるを持つての故なり」([[顕浄土真実証文類#P--322|二四九頁]])。 | 「一法句といふは謂く、清浄句なり。清浄句といふは謂く、真実の智慧、無為法身なるが故に 」とのたまへり。この三句は展転してあひ入る。なんの義に依りてか、これを名づけて法とする。 清浄を以つての故に、何の義に依りてか、名づけて清浄とする。真実の智慧、無為法身なるを持つての故なり」([[顕浄土真実証文類#P--322|二四九頁]])。 | ||
− | 一法句というのは清浄句である、清浄句というのは真実の智慧、無為法身のことである、この三つは互いに相入って一つになる。なぜ法と名づけるかといえば、清浄だからである。なぜ清浄かといえば、真実の智慧、無為法身だからである。そうすると一法句の本体をつきつめてゆくと真実の智慧、無為法身ということになる。だからつまるところ真実の智慧、無為法身から浄土が生まれ、如来が生まれ、そこに救済が成立し、その救済が真実であるということになるのである。従ってこの真実の智慧、無為法身こそ救済成立の根柢であり、その真実性の根拠である。ではこの真実の智慧、無為法身とはどのようなものなのか。曇鸞の説明は極めて深遠である。まず真実の智慧を説明して、「真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるが故に、真智、無知なり」(同上)という。真実の智慧というのは実相の智慧である、すなわち実相を証する智慧が真実の智慧である。ところがその知られる対象であるところの実相はもともと相というもののないもの、無相である。すなわち普通の意味でなんらかの形とか色とかいうもののない無相である。従って認識とか知識とかの対象としてあるようなものではない。しかしこのばあいにもいろいろなことが考えられる。例えば動的なものは認識の対象として、静的には知られないともいわれる。また情的なものは知的には知ることができないといわれる。いま実相が知ることができないというのは、そのようなばあいと同様な意味で知ることができないといわれているのではない。本来実相は無相であるから、その意味で知られないというのである。だからもし、そのような無相を知る働きがあるとするならば、それは知る働きのない知る働きとして、無知の知とでもいうよりほかないものであろう。言葉をかえて説明すれば、智慧はノエシス<ref>ノエシス、ノエマ【Noesis/noma】。ドイツの哲学者フッサールの現象学用語。ギリシャ語の見る=noeoに由来する言葉であり、概念である。意識の本質は「指向性」、つまり「――の意識」であることにあるが、その指向の仕組みは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考されたもの(対象)をさす「ノエマ」の両概念によって説明される。ここでは、知るもの(ノエシス)と知られるもの(ノエマ)というように考えれておけばよいと思ふ。</ref>的な働きのものであるが、その知られるべき対象であるノエマの実相はもともと知られるべき相のない無相である。実相はノエマではあるが、ノエマとして知られるべき相のないノエマである。このようなノエマをノエマとするノエシスは、ノエシスとしての働きをもちながらも、しかも知ることのないノエシスであるといえよう。むしろ知られるものなくして知られ、知るものなくして知る、境知如々、無相であり、無知である。実相を知る智慧は実相が無相であるから、知る働きなくして知る智慧であり、そのままで知るのである。それで真智は無知であるといわれるのである。もののありのままを知るということは、知る主体の側になんらかの作為があっては、ありのままに知ることはできない。もし真に知るというならば、作為なくして知るというような働きでなくてはならない。だからありのままに知る智慧は作為のない知る作用でなければならない。それゆえに、「真実を以てして智慧に目(な)づくることは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり」(同上)といわれるのである。智慧はなんら作為しない、自ら知ろうとする働きはない、しかし作為がないといっても金く働かないというのではない、単なる非作ではない、そこにはやはり智慧として知る働きがあるのである。従ってそれは非作の作といわれるのである。このような非作の作としての智慧にして、はじめて真実という名に値するのである。 ありのままを作為なくして、ありのままに知るがゆえに真実である。しかしここでありのままをありのままに見るといった場合、それは一般にいわれている如き、純粋客観的にものを見るというようなことと直ちに同じではない。ここでは「真智は無知なり」といわれ、「智慧は作にあらず」といわれているように、客観的にものを認識するというような、そんな働きをも止めるのである。西田幾多郎が従来の哲学の認識諭を批判して、「従来の認識論は、誰の自己でもない様な、抽象的な、意識的自己の立場から世界を考へた。故に自已が単に受働的に、映す世界が客観的と考へられるか、又は反対に個人的自己を越えた意識一般と云ふ如きものの構成の世界が客観的と考へられた」(『全集』第十巻、三五〇頁)。しかしそのような世界は客観的世界といっても、抽象的・意識的自已の立場から考えられた対象界であって、我々の自已がそれに於て働く世界ではないといい、従来の認識論を主観主義と批判しているが、それは従来の認識論の知が常に作為分別の立場にあるものであり、抽象的・意識的立場に立っていて、真にありのままに見るという無知の立場に立っていないことを批判しているのである。たとえザッハリッヒ<ref>ドイツ語、ザッハリッヒ(sachlich) | + | 一法句というのは清浄句である、清浄句というのは真実の智慧、無為法身のことである、この三つは互いに相入って一つになる。なぜ法と名づけるかといえば、清浄だからである。なぜ清浄かといえば、真実の智慧、無為法身だからである。そうすると一法句の本体をつきつめてゆくと真実の智慧、無為法身ということになる。だからつまるところ真実の智慧、無為法身から浄土が生まれ、如来が生まれ、そこに救済が成立し、その救済が真実であるということになるのである。従ってこの真実の智慧、無為法身こそ救済成立の根柢であり、その真実性の根拠である。ではこの真実の智慧、無為法身とはどのようなものなのか。曇鸞の説明は極めて深遠である。まず真実の智慧を説明して、「真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるが故に、真智、無知なり」(同上)という。真実の智慧というのは実相の智慧である、すなわち実相を証する智慧が真実の智慧である。ところがその知られる対象であるところの実相はもともと相というもののないもの、無相である。すなわち普通の意味でなんらかの形とか色とかいうもののない無相である。従って認識とか知識とかの対象としてあるようなものではない。しかしこのばあいにもいろいろなことが考えられる。例えば動的なものは認識の対象として、静的には知られないともいわれる。また情的なものは知的には知ることができないといわれる。いま実相が知ることができないというのは、そのようなばあいと同様な意味で知ることができないといわれているのではない。本来実相は無相であるから、その意味で知られないというのである。だからもし、そのような無相を知る働きがあるとするならば、それは知る働きのない知る働きとして、無知の知とでもいうよりほかないものであろう。言葉をかえて説明すれば、智慧はノエシス<ref>ノエシス、ノエマ【Noesis/noma】。ドイツの哲学者フッサールの現象学用語。ギリシャ語の見る=noeoに由来する言葉であり、概念である。意識の本質は「指向性」、つまり「――の意識」であることにあるが、その指向の仕組みは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考されたもの(対象)をさす「ノエマ」の両概念によって説明される。ここでは、知るもの(ノエシス)と知られるもの(ノエマ)というように考えれておけばよいと思ふ。</ref>的な働きのものであるが、その知られるべき対象であるノエマの実相はもともと知られるべき相のない無相である。実相はノエマではあるが、ノエマとして知られるべき相のないノエマである。このようなノエマをノエマとするノエシスは、ノエシスとしての働きをもちながらも、しかも知ることのないノエシスであるといえよう。むしろ知られるものなくして知られ、知るものなくして知る、境知如々、無相であり、無知である。実相を知る智慧は実相が無相であるから、知る働きなくして知る智慧であり、そのままで知るのである。それで真智は無知であるといわれるのである。もののありのままを知るということは、知る主体の側になんらかの作為があっては、ありのままに知ることはできない。もし真に知るというならば、作為なくして知るというような働きでなくてはならない。だからありのままに知る智慧は作為のない知る作用でなければならない。それゆえに、「真実を以てして智慧に目(な)づくることは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり」(同上)といわれるのである。智慧はなんら作為しない、自ら知ろうとする働きはない、しかし作為がないといっても金く働かないというのではない、単なる非作ではない、そこにはやはり智慧として知る働きがあるのである。従ってそれは非作の作といわれるのである。このような非作の作としての智慧にして、はじめて真実という名に値するのである。 ありのままを作為なくして、ありのままに知るがゆえに真実である。しかしここでありのままをありのままに見るといった場合、それは一般にいわれている如き、純粋客観的にものを見るというようなことと直ちに同じではない。ここでは「真智は無知なり」といわれ、「智慧は作にあらず」といわれているように、客観的にものを認識するというような、そんな働きをも止めるのである。西田幾多郎が従来の哲学の認識諭を批判して、「従来の認識論は、誰の自己でもない様な、抽象的な、意識的自己の立場から世界を考へた。故に自已が単に受働的に、映す世界が客観的と考へられるか、又は反対に個人的自己を越えた意識一般と云ふ如きものの構成の世界が客観的と考へられた」(『全集』第十巻、三五〇頁)。しかしそのような世界は客観的世界といっても、抽象的・意識的自已の立場から考えられた対象界であって、我々の自已がそれに於て働く世界ではないといい、従来の認識論を主観主義と批判しているが、それは従来の認識論の知が常に作為分別の立場にあるものであり、抽象的・意識的立場に立っていて、真にありのままに見るという無知の立場に立っていないことを批判しているのである。たとえザッハリッヒ<ref>ドイツ語、ザッハリッヒ(sachlich)。即物的。事象的、事物に即した、本質的なという意味を含む語。</ref>な立場を主張しているような哲学であっても、結局は意識的自己の立場を離れたものではない。西田哲学が行為的直観という如きことを主張するのも真智を目ざしたものといえるのではないであろうか。 |
真実の智慧はこのように、一切の知る立場を離れ、知る働きを絶して知るから、真実の智慧なのである。それで「心は智の相なりといえども、実相に入れば則ち無知なり」([[浄土論註_(七祖)#P--129|『往生論註』下]])といわれるのである。知ることを止めるといっても、全然なにもしないというのではない、それは一切の人間的な分別を止める、作為分別しないということである。知るものなくして知る、無知にして知る、無にして知るのである。無にして知るがゆえに、そこにはもののありのままがそのまま現われるのである。無にして知るところに、ものの実相、すなわち真実がそのままに現前するのである。それで『往生論註』に「正遍知は真なり、正なり、法界の如くにして知るなり。法界無相なるが故に、諸仏は無知なり。無知をもっての故に知らざること無きなり。無知にして知なるはこれ正遍知なり」([[浄土論註_(七祖)#P--83|『往生論註』上]])といっているのも、同様のことがらを述べたものである。また同書に、「凡心は知有れば則ち知らざるところあり、聖心は無知なるが故に、知らざるところなし、無知にして知なり、知即無知なり」([[浄土論註_(七祖)#P--129|『往生論註』下]])といっている。無知であればこそ、一切をそのままに知るのである。そして無知であればこそ、知らざるところなく、また知らざることがないのである。一般に知る場合、そこには知る立場がある。従って、ある一つの立場に立ってものを見るかぎり、必ずそこには知らないところがある。たとえば、物を見る目は目自身を見ることはできない。また自分の背中は見ることができぬ。何か一つの立場に立てば、全般にわたって、あまねく平等に知ることはできない。無知は知るという立場を絶して、立場がない、全くの無であるから、一切に遍して知ることができるのである。そして平等にわけへだてなく、偏見なしに知ることができるのである。それゆえに「無知にして知なるはこれ正遍知なり」といわれるのである。凡心は知る立場があるから知らざるところがあるのであり、無知は知らざるところがないのである。 | 真実の智慧はこのように、一切の知る立場を離れ、知る働きを絶して知るから、真実の智慧なのである。それで「心は智の相なりといえども、実相に入れば則ち無知なり」([[浄土論註_(七祖)#P--129|『往生論註』下]])といわれるのである。知ることを止めるといっても、全然なにもしないというのではない、それは一切の人間的な分別を止める、作為分別しないということである。知るものなくして知る、無知にして知る、無にして知るのである。無にして知るがゆえに、そこにはもののありのままがそのまま現われるのである。無にして知るところに、ものの実相、すなわち真実がそのままに現前するのである。それで『往生論註』に「正遍知は真なり、正なり、法界の如くにして知るなり。法界無相なるが故に、諸仏は無知なり。無知をもっての故に知らざること無きなり。無知にして知なるはこれ正遍知なり」([[浄土論註_(七祖)#P--83|『往生論註』上]])といっているのも、同様のことがらを述べたものである。また同書に、「凡心は知有れば則ち知らざるところあり、聖心は無知なるが故に、知らざるところなし、無知にして知なり、知即無知なり」([[浄土論註_(七祖)#P--129|『往生論註』下]])といっている。無知であればこそ、一切をそのままに知るのである。そして無知であればこそ、知らざるところなく、また知らざることがないのである。一般に知る場合、そこには知る立場がある。従って、ある一つの立場に立ってものを見るかぎり、必ずそこには知らないところがある。たとえば、物を見る目は目自身を見ることはできない。また自分の背中は見ることができぬ。何か一つの立場に立てば、全般にわたって、あまねく平等に知ることはできない。無知は知るという立場を絶して、立場がない、全くの無であるから、一切に遍して知ることができるのである。そして平等にわけへだてなく、偏見なしに知ることができるのである。それゆえに「無知にして知なるはこれ正遍知なり」といわれるのである。凡心は知る立場があるから知らざるところがあるのであり、無知は知らざるところがないのである。 | ||
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2020年1月29日 (水) 19:53時点における最新版
親鸞 教行信証 「原典日本仏教の思想」の星野元豊氏の解説より抜粋
(文中の頁は同書の頁番号であるが、便宜上対応する註釈版へリンクした。なお註は私に於いて附した。)
- 真如と浄土
真如と浄土との関係についてかくいっている。
「何が故ぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏菩薩に二種の法身あり。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由りて方便法身を生ず。方便法身に由りて法性法身を出だす。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。この故に広略相入して、統ぬるに法の名を以つてす。」(二四九頁)。
いま浄土の広と一法句の略との相入が実現されるのは、仏に法性法身と方便法身との二種類の法身があるからであるという。この二つの法身は異なったものではあるけれども、しかも分けることのできないものであり、一つのものといえるけれども、しかし全く同じというとはできない。この二つの法身はこのようなものであるが、これをその根柢において統一するものが一法句である。一法句を土台として法性法身から方便法身が生まれ、また方便法身によって法性法身が明らかになるというのである。それでこのことをより一層明らかにするために、まず根柢をなしている一法句がいかなるものであるかを明白にしなければならない、これについては次のように述べられている。
「一法句といふは謂く、清浄句なり。清浄句といふは謂く、真実の智慧、無為法身なるが故に 」とのたまへり。この三句は展転してあひ入る。なんの義に依りてか、これを名づけて法とする。 清浄を以つての故に、何の義に依りてか、名づけて清浄とする。真実の智慧、無為法身なるを持つての故なり」(二四九頁)。
一法句というのは清浄句である、清浄句というのは真実の智慧、無為法身のことである、この三つは互いに相入って一つになる。なぜ法と名づけるかといえば、清浄だからである。なぜ清浄かといえば、真実の智慧、無為法身だからである。そうすると一法句の本体をつきつめてゆくと真実の智慧、無為法身ということになる。だからつまるところ真実の智慧、無為法身から浄土が生まれ、如来が生まれ、そこに救済が成立し、その救済が真実であるということになるのである。従ってこの真実の智慧、無為法身こそ救済成立の根柢であり、その真実性の根拠である。ではこの真実の智慧、無為法身とはどのようなものなのか。曇鸞の説明は極めて深遠である。まず真実の智慧を説明して、「真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるが故に、真智、無知なり」(同上)という。真実の智慧というのは実相の智慧である、すなわち実相を証する智慧が真実の智慧である。ところがその知られる対象であるところの実相はもともと相というもののないもの、無相である。すなわち普通の意味でなんらかの形とか色とかいうもののない無相である。従って認識とか知識とかの対象としてあるようなものではない。しかしこのばあいにもいろいろなことが考えられる。例えば動的なものは認識の対象として、静的には知られないともいわれる。また情的なものは知的には知ることができないといわれる。いま実相が知ることができないというのは、そのようなばあいと同様な意味で知ることができないといわれているのではない。本来実相は無相であるから、その意味で知られないというのである。だからもし、そのような無相を知る働きがあるとするならば、それは知る働きのない知る働きとして、無知の知とでもいうよりほかないものであろう。言葉をかえて説明すれば、智慧はノエシス[1]的な働きのものであるが、その知られるべき対象であるノエマの実相はもともと知られるべき相のない無相である。実相はノエマではあるが、ノエマとして知られるべき相のないノエマである。このようなノエマをノエマとするノエシスは、ノエシスとしての働きをもちながらも、しかも知ることのないノエシスであるといえよう。むしろ知られるものなくして知られ、知るものなくして知る、境知如々、無相であり、無知である。実相を知る智慧は実相が無相であるから、知る働きなくして知る智慧であり、そのままで知るのである。それで真智は無知であるといわれるのである。もののありのままを知るということは、知る主体の側になんらかの作為があっては、ありのままに知ることはできない。もし真に知るというならば、作為なくして知るというような働きでなくてはならない。だからありのままに知る智慧は作為のない知る作用でなければならない。それゆえに、「真実を以てして智慧に目(な)づくることは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり」(同上)といわれるのである。智慧はなんら作為しない、自ら知ろうとする働きはない、しかし作為がないといっても金く働かないというのではない、単なる非作ではない、そこにはやはり智慧として知る働きがあるのである。従ってそれは非作の作といわれるのである。このような非作の作としての智慧にして、はじめて真実という名に値するのである。 ありのままを作為なくして、ありのままに知るがゆえに真実である。しかしここでありのままをありのままに見るといった場合、それは一般にいわれている如き、純粋客観的にものを見るというようなことと直ちに同じではない。ここでは「真智は無知なり」といわれ、「智慧は作にあらず」といわれているように、客観的にものを認識するというような、そんな働きをも止めるのである。西田幾多郎が従来の哲学の認識諭を批判して、「従来の認識論は、誰の自己でもない様な、抽象的な、意識的自己の立場から世界を考へた。故に自已が単に受働的に、映す世界が客観的と考へられるか、又は反対に個人的自己を越えた意識一般と云ふ如きものの構成の世界が客観的と考へられた」(『全集』第十巻、三五〇頁)。しかしそのような世界は客観的世界といっても、抽象的・意識的自已の立場から考えられた対象界であって、我々の自已がそれに於て働く世界ではないといい、従来の認識論を主観主義と批判しているが、それは従来の認識論の知が常に作為分別の立場にあるものであり、抽象的・意識的立場に立っていて、真にありのままに見るという無知の立場に立っていないことを批判しているのである。たとえザッハリッヒ[2]な立場を主張しているような哲学であっても、結局は意識的自己の立場を離れたものではない。西田哲学が行為的直観という如きことを主張するのも真智を目ざしたものといえるのではないであろうか。
真実の智慧はこのように、一切の知る立場を離れ、知る働きを絶して知るから、真実の智慧なのである。それで「心は智の相なりといえども、実相に入れば則ち無知なり」(『往生論註』下)といわれるのである。知ることを止めるといっても、全然なにもしないというのではない、それは一切の人間的な分別を止める、作為分別しないということである。知るものなくして知る、無知にして知る、無にして知るのである。無にして知るがゆえに、そこにはもののありのままがそのまま現われるのである。無にして知るところに、ものの実相、すなわち真実がそのままに現前するのである。それで『往生論註』に「正遍知は真なり、正なり、法界の如くにして知るなり。法界無相なるが故に、諸仏は無知なり。無知をもっての故に知らざること無きなり。無知にして知なるはこれ正遍知なり」(『往生論註』上)といっているのも、同様のことがらを述べたものである。また同書に、「凡心は知有れば則ち知らざるところあり、聖心は無知なるが故に、知らざるところなし、無知にして知なり、知即無知なり」(『往生論註』下)といっている。無知であればこそ、一切をそのままに知るのである。そして無知であればこそ、知らざるところなく、また知らざることがないのである。一般に知る場合、そこには知る立場がある。従って、ある一つの立場に立ってものを見るかぎり、必ずそこには知らないところがある。たとえば、物を見る目は目自身を見ることはできない。また自分の背中は見ることができぬ。何か一つの立場に立てば、全般にわたって、あまねく平等に知ることはできない。無知は知るという立場を絶して、立場がない、全くの無であるから、一切に遍して知ることができるのである。そして平等にわけへだてなく、偏見なしに知ることができるのである。それゆえに「無知にして知なるはこれ正遍知なり」といわれるのである。凡心は知る立場があるから知らざるところがあるのであり、無知は知らざるところがないのである。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:入一法句
にゅういっぽっく/入一法句
一法句とは真如法性を意味し、三種二十九句荘厳成就が一法句におさまることを入一法句という。世親は『往生論』の長行において、「向きに説く観察荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就となり。此の三種の成就は、願心をもて荘厳せり。応に知るべし。略して入一法句を説く故に。一法句とは謂く清浄句なり。清浄句とは謂く真実智慧無為法身なるが故に」(聖典一・三六八/浄全一・一九六)と説き、一法句とは清浄句であり、また真実智慧無為法身を意味し、いわゆる真如法性を意味することを示している。また続いて「此の清浄に二種あり。応に知るべし。何等か二種なる。一には器世間清浄。二には衆生世間清浄なり。…是の如く一法句に二種の清浄の義を摂す。応に知るべし」と説き、一法句に三種二十九句荘厳成就(器世間清浄と衆生世間清浄)がおさまることを示している。なお曇鸞は『往生論註』下「浄入願心」のなかで「略して入一法句を説くが故に」の句を解釈して「上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となし、入一法句を略となす。何が故ぞ広略相入を示現する。諸仏菩薩に二種の法身あり。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生じ、方便法身によりて法性法身を出す。この二法身は異にして分つべからず、一にして同ずべからず」(浄全一・二五〇上~下)と述べ、阿弥陀仏の願心荘厳である三種二十九句荘厳成就を広、入一法句を略とし、両者が不一不異の関係(相入)にあることを示している。なお浄土宗においては、卒塔婆の裏面にこの句を記すことが多い。
【参考】藤堂恭俊『無量寿経論註の研究』(仏教文化研究所、一九五八)、石川琢道『曇鸞浄土教形成論』(法蔵館、二〇〇九)
【参照項目】➡三種二十九句荘厳功徳、広略相入、二種法身
【執筆者:石川琢道】
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