「吉崎」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(同じ利用者による、間の2版が非表示) | |||
6行目: | 6行目: | ||
---- | ---- | ||
吉崎に道場を建てた経緯は、比叡山延暦寺からの二度による本願寺破却(1465)などいう迫害から逃れるという面がある。<br /> | 吉崎に道場を建てた経緯は、比叡山延暦寺からの二度による本願寺破却(1465)などいう迫害から逃れるという面がある。<br /> | ||
− | + | このような比叡山からの迫害は、本願寺は、延暦寺傘下の青蓮院の末寺でありながら、御開山の説かれた「帰命尽十方無碍光如来」の、善悪のへだてなき[[済度]]を盛んに説く蓮如上人の示される無碍を「[[造悪無碍]]」と受け取った為であった。当時は「無碍光宗」とも呼ばれていたようであるが、悪意をもって誤解したのであろう。また一向に弥陀に帰命するところから他宗を疎かにするという危惧もあったのであろう。<br /> | |
− | + | ともあれ、京都から一時的に避難した江州(滋賀県)は比叡山に近く、より比叡山から遠い地へと避難する必要もあったのである。それに力を貸したのが、父存如の従兄弟である法相宗大乗院の[[JWP:経覚|経覚]]であった。<br /> | |
− | + | 越前河口庄細呂木郷には、大乗院の荘園があり、その管理を本願寺の末寺である和田本覚寺が担っていたのだが、守護による荘園の横領に悩んでいたのが大乗院の経覚であった。経覚にしてみれば信頼できる蓮如上人に荘園の管理をさせたいとう意もあったのであろう。このような縁によって蓮如上人は、細呂宜郷内吉崎の地に一宇を建立したのであった。([[御文章_(一帖)#no8|吉崎建立章]])<br /> | |
ところが、この地での、ある意味で捨て身の蓮如上人の教化が、北陸はおろか奥州にまで勧化の力が及び、一大教団となるのであった。蓮如上人の行状を記した『空善聞書』には、 | ところが、この地での、ある意味で捨て身の蓮如上人の教化が、北陸はおろか奥州にまで勧化の力が及び、一大教団となるのであった。蓮如上人の行状を記した『空善聞書』には、 | ||
:一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。(『浄土真宗聖教全書』p.672) | :一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。(『浄土真宗聖教全書』p.672) |
2017年9月16日 (土) 10:38時点における最新版
よしざき
現在の福井県あわら市(旧金津町)吉崎。文明三年(1471)蓮如上人が北陸教化の根本道場として吉崎御坊を建立された地。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
吉崎に道場を建てた経緯は、比叡山延暦寺からの二度による本願寺破却(1465)などいう迫害から逃れるという面がある。
このような比叡山からの迫害は、本願寺は、延暦寺傘下の青蓮院の末寺でありながら、御開山の説かれた「帰命尽十方無碍光如来」の、善悪のへだてなき済度を盛んに説く蓮如上人の示される無碍を「造悪無碍」と受け取った為であった。当時は「無碍光宗」とも呼ばれていたようであるが、悪意をもって誤解したのであろう。また一向に弥陀に帰命するところから他宗を疎かにするという危惧もあったのであろう。
ともあれ、京都から一時的に避難した江州(滋賀県)は比叡山に近く、より比叡山から遠い地へと避難する必要もあったのである。それに力を貸したのが、父存如の従兄弟である法相宗大乗院の経覚であった。
越前河口庄細呂木郷には、大乗院の荘園があり、その管理を本願寺の末寺である和田本覚寺が担っていたのだが、守護による荘園の横領に悩んでいたのが大乗院の経覚であった。経覚にしてみれば信頼できる蓮如上人に荘園の管理をさせたいとう意もあったのであろう。このような縁によって蓮如上人は、細呂宜郷内吉崎の地に一宇を建立したのであった。(吉崎建立章)
ところが、この地での、ある意味で捨て身の蓮如上人の教化が、北陸はおろか奥州にまで勧化の力が及び、一大教団となるのであった。蓮如上人の行状を記した『空善聞書』には、
- 一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。(『浄土真宗聖教全書』p.672)
と、あるように、現代の権威主義的に演壇の上から法を説く真宗坊主と異なり、同じき平座で御開山のお示しを朋同行として聞信されたのが、蓮如さんであった。ゆえに越前の同行は、蓮如上人では無く、朋同行として蓮如さん、蓮如さんと呼称しているのであった。