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2017年10月26日 (木) 00:29時点における最新版

かきのころも

Ⅰ  柿渋で染めた無紋の衣。山伏(山臥)などが着た。(御伝鈔 P.1055)

Ⅱ  山伏が正先達の位になって着る柿渋で染めた無紋の衣。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

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熊野山中でほら貝を吹き修行中の山伏
山伏問答の様子(伽耶院採燈大護摩供
山岳修行者の出で立ち(『都年中行事画帖』〈1928年〉)
護摩を焚き祈祷する山伏の動画(転法輪寺

山伏(やまぶし)とは、中で修行をする修験道の道者。「修験者」(しゅげんじゃ)とも言う。

概要

山伏は、吉野山地大峯山金峯山寺、現在の奈良県)を代表に、大山鳥取県)や羽黒山山形県)など日本各地の霊山と呼ばれる山々を踏破(抖擻)し、懺悔などの厳しい艱難苦行を行なって、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事を目的とする。

山岳信仰の対象となる山岳のほとんどは、一般の人々の日常生活からはかけ離れた「他界」に属するものであり、山伏たちは山岳という他界に住んで山の霊力を体に吸収し、他界や現界をつなぐ者としての自己を引き上げて、それらの霊力を人々に授ける存在とされていた。

富士講熊野詣が盛んな時代には、先達と呼ばれる山伏たちが地方の信者をバックアップするために全国の霞場()を組織的に巡回し、ガイドとして参拝に同行した[1]

山伏は、頭に頭襟(頭巾、兜巾、ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製のを持つ。袈裟と、篠懸(すずかけ)という法衣を身に纏う。また、山中での互いの連絡や合図のために、ほら貝を加工した楽器を持つ。

天狗烏天狗は、山伏の装束を身に纏うとされた。

女人禁制の修験道地は各地存在するが、女人の修験を受け入れている神社仏閣も増加しており[2]、女性山伏も数多く活躍している[3][4]

歴史

日本各地に山やそこにある巨石を崇拝対象とした祭祀遺跡があり、山岳信仰は原始時代から続いている。伝来した仏教でも山に入って修行する僧侶らがおり、比叡山延暦寺高野山金剛峯寺のような山岳寺院も形成された。そこから、さらに山中に分け入って修行する僧侶がいた。山伏の祖は飛鳥時代役小角(役行者)とされることが多いが、言葉としては、平安時代中期の『新猿楽記』に大験者次郎という者を「山臥修行者」と書いているのが山伏(臥)の初見である[5]

大峯などでは、山岳修行者の守り本尊として金剛蔵王菩薩蔵王権現)が尊崇された[5]

厳しい修行をする山伏は、常人にはない力を持つと信ぜられた。密教僧と同じく加持祈祷を依頼され、九字を切り、印を結び、陀羅尼を唱えた。『宇治拾遺物語』には渡し舟を祈りで呼び戻したとの話が載る。室町幕府の実力者でありながら魔法の修行に励んだ細川政元は「出家のごとし山伏のごとし」と称された(『 足利季世記』)[6]

山伏が各地の山を修行して回る場合、宿所・食料は里人や寺院の接待に頼った。関所関銭や渡し舟の運賃(舟手・川手)は免除されるのが慣例で、諸方の交通に明るく、「山臥の道」(『吾妻鏡』)といった抜け道もよく心得ていた。このため、山伏が使者やその道案内を務めたり、逃亡者や密使が山伏に偽装したりしたことが鎌倉時代から南北朝室町時代にかけて度々あり、帯刀も珍しくなかった[6]源義経主従は奥州へ落ち延びる際に山伏に扮していたと伝えられている(『吾妻鏡』『義経記』等)。

山麓の寺院などに定住した山伏には、妻帯したり、稚児を囲ったりした者もいた[6]

鎌倉時代以降、山伏の数が増えるにつれ組織化が進み、寺社に寄宿する山伏たちが、所領などを巡る紛争で共同行動を起こすこともあった。山伏を統括する寺院のうち、特に有力となったのは天台宗本山派真言宗当山派が有力である[7]。武家からの介入も増え、江戸時代慶長18年5月21日には『山伏法度(修験道法度)』が発せられて、本山・当山両派による山伏の統括が法制化された。両派に属しない山伏もいた[7]

明治政府は明治5年、神仏分離令を発した。山伏は真言・天台両宗いずれかに属するか、神官となるか、帰農するかを求められたが、その後も山で宗教的な修行をする者は絶えず[8]国東半島大分県)のように古の山伏修行が復興した地域もある[9]

修験十六道具

山伏独特の修験十六道具は、それぞれ不二の世界、十界不動明王母胎などを象徴する。これらを身にまとい行を修めることにより、修験者はその力を身につけることができるのである。

1.頭襟 - 2.鈴懸(篠懸) - 3.結袈裟(不動袈裟) - 4.最多角念珠 - 5.法螺 - 6.斑蓋(檜笠) - 7.錫杖(菩薩錫杖) - 8.(箱笈) - 9.肩箱 - 10.金剛杖 - 11.引敷 - 12.脚半 - 13.八目の草鞋 - 14.檜扇 - 15.柴打 - 16.走縄(螺緒) - 17.簠簋扇 - (カンマン着

上がその一覧であるが、1.から12.を山伏十二道具、1.から16.までを山伏十六道具という。

胸に付けられたぼんぼりは「結袈裟の梵天」という。

修行体験

山伏は神仏習合の影響が強く残る神社仏閣に所属する僧侶や神職がなることが多いほか、普段は社会人として働く在家の信者が、「講」を組織して修行の時だけ山伏となることも多い。山伏の講の多くは真言宗当山派醍醐寺か、天台宗本山派聖護院のどちらかに所属する(他に吉野の、教派神道や単立寺院の山伏などどちらにも属さない場合もある)。羽黒山では毎年9月、希望者が白装束を着て入峰し、断食滝打ち火渡り床堅座禅)、忍苦の行南蛮いぶし)などの活動を通して山伏修行を体験できる。山形県の湯殿山では4月から11月までの間、山伏体験ができる。

山伏を題材とした作品

参考文献

脚注

出典

  1. ^ 西山松之助『江戸庶民の四季』<岩波セミナーブックス> 岩波書店 1993年、ISBN 4000042165 pp.198-202.
  2. ^ 大人女性に「山伏修行」が人気! 「修験道の世界」に魅了されるワケ”. 朝日新聞社 (2018年2月18日). 2023年5月6日閲覧。
  3. ^ 県内最年少の女性山伏 小野関隆香さん(22) 人の集まる寺院へと精進 /群馬” (2020年11月12日). 2023年5月6日閲覧。
  4. ^ 山伏の横顔③(古賀文子)様 ~私が山伏になった理由~”. 葛城修験日本遺産活用推進協議会事務局 (2022年7月15日). 2023年5月6日閲覧。
  5. ^ a b 和歌森『山伏』「Ⅱ.山伏の起こり」
  6. ^ a b c 和歌森『山伏』「Ⅲ.中世山伏の活動」
  7. ^ a b 和歌森『山伏』「Ⅴ.山伏の組織化」
  8. ^ 和歌森『山伏』「Ⅵ.定着山伏の実態」
  9. ^ 和歌森『山伏』「Ⅰ.山伏の印象」
  10. ^ 山伏、現代(いま)を駈(か)ける〜祈りの山 出羽三山〜”. NHK (2021年6月26日). 2021年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月3日閲覧。

関連項目

外部リンク