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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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いしやま-ほんがんじ
  
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いしやまほんがんじ 石山本願寺
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 大坂本願寺のこと。[[蓮如]]が明応5年 (1496) 摂津国大坂 (現在の大阪城付近) に建立した坊舎 (大坂御坊) に始まる。『御文章』4帖目15通に
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とある。天文元年 (1532)、山科本願寺が細川晴元の意を受けた六角定頼と日蓮宗徒に攻められて焼失したため、[[証如]]はこの坊舎に本願寺の寺基を移した。顕如の時、織田信長との戦い ([[石山合戦]]) により、天正8年 (1580)、紀伊国<kana>鷺森(さぎのもり)</kana> (現在の和歌山市) に退去するまで、この地に本願寺の寺基があった。(浄土真宗辞典)
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*→[[JWP:石山本願寺]]

2023年12月3日 (日) 20:57時点における最新版

いしやま-ほんがんじ

いしやまほんがんじ 石山本願寺

 大坂本願寺のこと。蓮如が明応5年 (1496) 摂津国大坂 (現在の大阪城付近) に建立した坊舎 (大坂御坊) に始まる。『御文章』4帖目15通に

「当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや」(註 1187)

とある。天文元年 (1532)、山科本願寺が細川晴元の意を受けた六角定頼と日蓮宗徒に攻められて焼失したため、証如はこの坊舎に本願寺の寺基を移した。顕如の時、織田信長との戦い (石山合戦) により、天正8年 (1580)、紀伊国鷺森(さぎのもり) (現在の和歌山市) に退去するまで、この地に本願寺の寺基があった。(浄土真宗辞典)


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