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「三心料簡および御法語」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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(弘願といふは大経に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」)<br />
 
(弘願といふは大経に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」)<br />
  
是を以て今の文に正く彼の阿弥陀仏因中に菩薩行を行ぜし時、乃至一念一刹那も三業の所修、皆是れ真実心の中に作すに由るべし云々。<br />
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是を以て今の文に正く彼の阿弥陀仏因中に菩薩行を行ぜし時、乃至一念一刹那も三業の所修、皆是れ真実心の中に作すに'''由'''るべし云々。<br />
 
阿弥陀仏因中真実心中作に由るべし行こそ悪雑はらざるの善なるが故に真実と云ふ也。<br />
 
阿弥陀仏因中真実心中作に由るべし行こそ悪雑はらざるの善なるが故に真実と云ふ也。<br />
 
其の義何を以て知るを得。<br />
 
其の義何を以て知るを得。<br />

2018年4月26日 (木) 18:41時点における最新版

一、三心料簡事

疏の第四に付きて仰せに云く、先ず浄土には悪の雑(まじ)はる善は永く生ずべからずと知るべし。 是を以って(玄)義分には、定即息慮以疑(凝)心、散即廃悪以修善、廻此二行求願往生。文
(定はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。散はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。)

又散善義に云く、上輩上行上根人、求生浄土断貪嗔。文
(上輩は上行上根の人なり。浄土に生ずることを求めて貪瞋を断ず。)

然れば則ち今此の至誠心の嫌ふ所の虚仮の行とは余善諸行也。
三業に精進を勧むといへども、内に貪嗔邪偽等の血毒雑(まじ)はる故に、雑毒の善と名け、雑毒の行と名け、往生不可といふなり。

是を以て礼讃の専雑二行得失中に、雑修の失に云く 貪嗔諸見煩悩来りて間断す。
故に此等の雑行を廻して、直に報仏浄土に生と欲ふ、尤も不可と嫌う道理也。

然に身口の二業を以て外と為し、意業一を以て内と為さんとは僻事也。
既に雖起三業と云 豈に意業を除かんや。
又虚仮とは、狂惑の者と云ふ事僻事なり。
既に苦励身心と云ひ、又 日夜十二時急走急作如炙頭然者 と云ふ文。
(日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするもの)
云何ぞ仮名の行人此の如くならんや、正しく是れ雑行の者なり。

次に選取する所の真実とは、本願の功徳、即ち正行念仏なり。 是を以て玄義分に云く。言弘願者、如大経説、一切善悪凡夫得生者、莫不皆乗阿弥陀仏大願業力為増上縁也。云々
(弘願といふは大経に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」)

是を以て今の文に正く彼の阿弥陀仏因中に菩薩行を行ぜし時、乃至一念一刹那も三業の所修、皆是れ真実心の中に作すにるべし云々。
阿弥陀仏因中真実心中作に由るべし行こそ悪雑はらざるの善なるが故に真実と云ふ也。
其の義何を以て知るを得。
次の釈に、凡所施為趣求亦皆真実 文。
(凡そ施為趣求する所亦皆真実なり)
此の真実を以て施すとは、何者に施すと云へば、深心の二種の釈の第一 罪悪生死凡夫と云へる此の衆生に施すなり。

造悪の凡夫、即ち此の真実に由るべき之機なり。 云何知るを得。 第二の釈に阿弥陀仏四十八願、衆生を摂受す等と云々
此の如く心得べきなり云々


これによれば浄土へは悪の雑わる善を以て往生することはできないが、そのような行とは雑行をさしている。

ずなわち善導は息慮凝心の定善、廃悪修善の散善は、貪嗔煩悩を断じて往生しようとするものであるといわれているが、この至誠心釈において虚仮の行といわれたのは、正しくこのような定散という要門の余善諸行をさしている。

それは廃悪修善しようとして三業に精進するけれども、現実には内に貪嗔邪偽等の煩悩の血毒が雑わっているからである。

それゆえ雑毒の行善とよばれ、報仏の浄土へ生まれることのできない雑行であるといわれるのである。

尚疏の虚仮の行者を誑惑の者とみるのは不当である。なぜならば、すで身心苦励し日夜精進している者であるから決して誑惑者といった仮名の行人ではなく、定散自力の行をはげむ雑行者をさしていたとせねばならない。

また疏の「外現賢善精進、内懐虚仮」といわれた内外と、「雖起三業名為雑毒之善亦名虚仮之行」といわれた三業との関係は、三業全体を外とし、内に煩悩を懐いていることを内といわれたとせねぱならない。 身口二業を外とし、意業を内としたものではない。すなわち雑行は如何に三業を苦励しても、内に煩悩悪性を懐いているから雑毒虚仮の行善といわれるのである。

このような雑行が如来によって選捨されたものであるのに対して、選取せられた真実とは、本願の功徳、すなわち正行たる念仏である。それは『玄義分』のいわゆる弘願にあたる。それは至誠心釈に「阿弥陀仏が因中に真実心の中に作すに由るべし」といわれたものにあたる。すなわち阿弥陀仏因中の真実心中の作に由る行こそ、悪の雑わらない善であるから真実というのである。

そのことは「凡所施為趣求亦皆真実」といわれたものによって知ることができる。施とは、何者に施すのかといえば、次下の深心の第一釈(機の深信)における罪悪生死の凡夫に施すのである。

すなわち造悪の凡夫が、この如来より施与せられた真実に由るべき機であることがわかる。それをさらに明確に示しているのが第二釈(法の深信)の「阿弥陀仏四十八願摂受衆生」等といわれたものであるというのである。

この「三心料簡事」によれぱ、至誠心釈の雑毒虚仮の行とは、三業を苦励しながらも、内には煩悩悪性を懐いている雑行をさし、それを誠めたのが「不得外現賢善精進之相、内懐虚仮」の文であるということになる。従ってこの文は親鸞が読まれたように「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読まねばならないことになる。要するにこれは雑行を誠めた文になるのである。また念仏が悪の雑わらぬ真実であるのは、阿弥陀仏の真実心に由って行ずるものだからである。

如来の真実心に由来する行であるということは、如来より施された行であるという意味をあらわしている。それを示しているのが「所施為趣求」という語であるといわれているから、この文は一般的に読まれるような「施為(利他)趣求(自利)するところ」と単に如来の自利利他をあらわすものではなく「施為せられて趣求する」とよむべきである。

すなわち如来から真実なる行を施されて、その行を以て浄土を趣求するという意味になる。親鸞が「凡そ施したまふところ趣求をなす」と読まれたのも、その意をあらわそうとされたものであろう。

『法然教学の研究』梯 實圓著 p284~285