「無根の信」の版間の差分
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+ | と、「伊蘭子」のような煩悩を縁として、「栴檀樹」のような信がおきることに譬える。これは仏の教化(本願力)によって新しく蘇った阿闍世を意味するのであろう。 | ||
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+ | と本願力回向の信は「みづからの善根において信を生ずることあたはず」とある。仏智を疑いながらながら功徳を積んで、仏の智慧を願い求めるから、自ら積む功徳にとらわれて他力の信を生じることができないのである。 | ||
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2024年6月13日 (木) 14:44時点における最新版
むこんのしん
煩悩心より生じた信でないこと。すなわち他力回向の信心をいう。(信巻 P.286)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
「信文類」で『涅槃経』を引いて、父殺しの阿闍世が、
- 阿闍世、無根の信を生ず
と、「伊蘭子」のような煩悩を縁として、「栴檀樹」のような信がおきることに譬える。これは仏の教化(本願力)によって新しく蘇った阿闍世を意味するのであろう。
「化巻」等で『如来会』を引いて、
と本願力回向の信は「みづからの善根において信を生ずることあたはず」とある。仏智を疑いながらながら功徳を積んで、仏の智慧を願い求めるから、自ら積む功徳にとらわれて他力の信を生じることができないのである。