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「自利利他」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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じり-りた
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じり-りた えんまん
  
 【左訓】「自利は阿弥陀の<kana>仏(ほとけ)</kana>になりたまひたるこころ、利他は<kana>衆生(しゅじょう)</kana>を往生せしむるこころ、円は善悪すべて[[EXC:わかず|わかず]]、よきことになしてましますこころの満ちたるこころなり。みづからも仏になり、衆生も仏になることを円満すといふなり」(異本)([[浄土和讃#no37|浄土 P.562]])
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 【[[左訓]]】「[[自利]]は阿弥陀の<kana>仏(ほとけ)</kana>になりたまひたるこころ、[[利他]]は<kana>衆生(しゅじょう)</kana>を往生せしむるこころ、円は善悪すべて[[EXC:わかず|わかず]]、よきことになしてましますこころの満ちたるこころなり。みづからも仏になり、衆生も仏になることを円満すといふなり」(異本)([[浄土和讃#no37|浄土 P.562]])
  
 
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Ⅱ 親鸞は、自利を[[自力]]の意、利他を[[他力]]の意としても用いている。『愚禿鈔』には「おほよそ心について、二種の三心あり。一には自利の三心、二には利他の三信なり」とある。([[愚禿下#P--541|註 541]])(浄土真宗辞典)
 
Ⅱ 親鸞は、自利を[[自力]]の意、利他を[[他力]]の意としても用いている。『愚禿鈔』には「おほよそ心について、二種の三心あり。一には自利の三心、二には利他の三信なり」とある。([[愚禿下#P--541|註 541]])(浄土真宗辞典)
 
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2024年10月20日 (日) 00:55時点における最新版

じり-りた えんまん

 【左訓】「自利は阿弥陀の(ほとけ)になりたまひたるこころ、利他衆生(しゅじょう)を往生せしむるこころ、円は善悪すべてわかず、よきことになしてましますこころの満ちたるこころなり。みづからも仏になり、衆生も仏になることを円満すといふなり」(異本)(浄土 P.562)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

じり-りた

自利利他

 自利と利他のこと。
Ⅰ 自利とは自己を利することで、自らの修行によって自身が利益を得ること。利他とは他者を利益することで、他の衆生に功徳利益を施すこと。大乗の菩薩は、自利がそのまま利他となり、利他がそのまま自利となる自利利他円満を理想としている。→菩薩

Ⅱ 親鸞は、自利を自力の意、利他を他力の意としても用いている。『愚禿鈔』には「おほよそ心について、二種の三心あり。一には自利の三心、二には利他の三信なり」とある。(註 541)(浄土真宗辞典)

菩薩
上求菩提・下化衆生