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− | [http://www.icho.gr.jp/yomu/essei/yahata1 「如是我聞」の意味 -中国人学生から教えられたこと /矢幡 和男]
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− | 『如是我聞(かくのごとくわれきけり)』は『阿弥陀経』の最初の一句です。「私はこの様にお釈迦様の説法を聞きました」という意味です。
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− | 『阿弥陀経』の梵文経典の題名は「スカヴァテイー・ヴューハ」で、日本語訳すれば「スカヴァテイー」は「幸あるところ・幸福の国・浄福の世界」という意味で、これを中国で「極楽」「安楽国」と訳したのです。「ヴューハ」は「素晴らしく見事な景観」という意味です。しかし、この経典の題名を『阿弥陀経』と訳したのは、『無量寿経』も同じ題名だったからです。二つとも同じ題名のお経だったので、片方を『阿弥陀経」、もう片方を『無量寿経』と名付けられました。
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− | お釈迦さまはお経を一人ひとりの心の目覚めを促すために説かれました。それは『阿弥陀経』の終りには、「われ一切の世間のためにこの難信の法を説けり」とあり、また、「もろもろの善男子、善女人にして、もし(この経を)信ずることあらん者は、まさに発願して彼の国土に生ずべし」と説いてあります。だから、このお経は一切世間のすべての人々に説かれたお経であり、生きとし生けるものの往生の道を説き明かされた経典であるということがわかります。したがって、このお経をいくら読んだり聞いたりしても、そこに何が説かれているか、その意味がわからなければ何にもなりません。大事なことは、ほかならぬわたし自身のために説かれたお経なんだということです。どのお経でもみなそうですが、そこに何が書いてあるのか、わたし自身がそれをどう受けとめるのか、という問題が大切なのです。
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− | もう十年以上も前のことになりますが、中国から近畿大学の経済学部へ留学してしている若い方と話す機会がありました。その方(仏教を知らない方)と中国と日本の違いなどを話したのですが、その時たまたま宗教の話になりました。中国は漢字の国ですので、話すより書いた方が分かりやすいという事で、隣にいた住職さんがこの『阿弥陀経』の経文を紙に書かれました。それを見た中国人の方は「よく分かる」とおっしゃいました。そしてこの「如是我聞」という言葉は「わたしの心の中に新しい世界が生まれて来ました、という意味ですね」とおっしゃたのです。「このようにお釈迦様の説法を聞きました」と訳されるものだ、とそこにいた全員が思っていたものですし、そんな訳があることを知らなかったのでみんなびっくりしたのでした。わたしは「なぜそういう訳になるのですか」と聞くと、その方は「もう中国では漢字の意味の分かる方は少なくなりましたが、『聞』は心にきこえてきたことをあらわす字なので、聞いたことによって心が新しく新鮮に開かれてきたと訳すのです。」とおっしゃいました。お経の始めに常にこの字が使われているのは、昔のインド語(サンスクリット語)から中国語に訳すときに、『聞』という字を使ってこのことを表現されたのでしょう。(サンスクリット語から直訳した方は『私の心の闇が、光によって解き放された』と訳します、と教えていただきました。また、現在も他の中国人の方にこの話をすると同様のことを言われ、『聴』は耳に入ってきただけの意味だと教えてくれます。)
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− | 『聞』という字を使って表したかったことは「仏様の光によって、私の心の闇が明るく解き放されること」なのです。昔聞いた言葉で「聴聞の聴は耳できく。聞は心できく。」ということです。お経を読むということは、それによって心が開かれていくことなのです。
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− | 『観無量寿経』の「心眼障りなくして、はるかに世尊を見たてまつりて」とは同様に「心の闇が開かれて仏様に出会えた」という意味なのでしょう。よって毎日の読経で『私の心の闇が、仏様の光によって解き放されました』と言えるように心して読まなければ、と思いました。
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− | 文化革命によって、中国本土では現在漢字の意味が不明になってきていますが、台湾では漢字の意味を守り続ける教育が今も続いています。(初出『朋友』)
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− | (初出『朋友』)
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2024年10月17日 (木) 10:50時点における最新版
にょぜ-がもん
このように私は聞いたという意。 →如是 (浄土真宗辞典)
- →聴聞
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:如是我聞
にょぜがもん/如是我聞
「このように私は聞きました」(Ⓢevaṃ mayā śrutamⓅevaṃ me sutaṃ)の意味の、経典冒頭にある定型句。我聞如是、聞如是、我昔曽聞とも漢訳される。文法的には我聞如是が正しい訳であるが、如是我聞はインドの語順に並び替えた翻訳文学特有のもので、羅什以降に用いられるようになったと言われている。この定型句が経典の冒頭にくるのは、釈尊の涅槃の直後に行われた第一結集において、釈尊の侍者であり、多聞第一と呼ばれた阿難陀(ⓈⓅĀnanda)が自分の記憶をたどって「このように私は聞きました。ある時世尊は…」と釈尊の教えを確認したことに由来する。したがってここにいう「私」は阿難陀のことであり、この解釈にしたがって伝統的に四字一句として理解されている。しかし一方で龍樹が『大品般若経』の註釈である『大智度論』一の中で「如是我聞一時」(正蔵二五・六二下)として釈していることなどから、「一時」が説経時ではなく、聴経時として「(釈尊在世中の)ある時このように私は聞きました」という解釈もあったことが知られている。
【参考】中村元『ブッダ最後の旅』(岩波文庫、一九八〇)
【参照項目】➡六成就
【執筆者:吹田隆道】