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「山科本願寺」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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 蓮如が山科郷野村(現在の京都市山科区西野一帯)に建立した本願寺のこと。寛正6年(1465)、延暦寺の衆徒によって大谷本願寺が破却(寛正の法難)された後、蓮如は近畿・北陸の地を転々としていたが、文明10年(1478)、山科を本願寺再建の地と定め、文明12年(1480)には御影堂(ごえいどう)が完成するなど本願寺の再興をなしとげた。『御一代記聞書』第199条(註 1294) などでは山科本願寺は野村殿と呼ばれている。山科が本願寺再興の地として選ばれたのは、近江国<kana>金森(かねがもり)</kana>の善従の勧めによるとも、野村の年寄りである海老名五郎左衛門入道浄乗の召請によるともいわれる。<br >
 
 蓮如が山科郷野村(現在の京都市山科区西野一帯)に建立した本願寺のこと。寛正6年(1465)、延暦寺の衆徒によって大谷本願寺が破却(寛正の法難)された後、蓮如は近畿・北陸の地を転々としていたが、文明10年(1478)、山科を本願寺再建の地と定め、文明12年(1480)には御影堂(ごえいどう)が完成するなど本願寺の再興をなしとげた。『御一代記聞書』第199条(註 1294) などでは山科本願寺は野村殿と呼ばれている。山科が本願寺再興の地として選ばれたのは、近江国<kana>金森(かねがもり)</kana>の善従の勧めによるとも、野村の年寄りである海老名五郎左衛門入道浄乗の召請によるともいわれる。<br >
その後、山科本願寺は繁栄をきわめたが、天文元年(1532)、細川春元の意を受けた六角定頼と日蓮宗徒に攻められて焼失し、本願寺の寺基は大坂へ移された。山科本願寺の跡地には蓮如・実如・証如の墓があるのみで荒廃したが、享保17年(1732)、本願寺15代住如は本願寺派北山別院の本堂を移築し、本願寺派の山科別院 (京都市山科区東野狐薮町) として再興した。また同年、大谷派17代真如は東本願寺境内にあった長福寺を移築し、大谷派の山科別院 (京都市山科区竹鼻サイカシ町) として再興した。(浄土真宗辞典)
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その後、山科本願寺は繁栄をきわめたが、天文元年(1532)、[[JWP:細川晴元|細川晴元]]の意を受けた六角定頼と日蓮宗徒に攻められて焼失し、本願寺の寺基は大坂へ移された。山科本願寺の跡地には蓮如・実如・証如の墓があるのみで荒廃したが、享保17年(1732)、本願寺15代住如は本願寺派北山別院の本堂を移築し、本願寺派の山科別院 (京都市山科区東野狐薮町) として再興した。また同年、大谷派17代真如は東本願寺境内にあった長福寺を移築し、大谷派の山科別院 (京都市山科区竹鼻サイカシ町) として再興した。(浄土真宗辞典)
 
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2022年11月26日 (土) 05:44時点における最新版

やましなほんがんじ 山科本願寺

 蓮如が山科郷野村(現在の京都市山科区西野一帯)に建立した本願寺のこと。寛正6年(1465)、延暦寺の衆徒によって大谷本願寺が破却(寛正の法難)された後、蓮如は近畿・北陸の地を転々としていたが、文明10年(1478)、山科を本願寺再建の地と定め、文明12年(1480)には御影堂(ごえいどう)が完成するなど本願寺の再興をなしとげた。『御一代記聞書』第199条(註 1294) などでは山科本願寺は野村殿と呼ばれている。山科が本願寺再興の地として選ばれたのは、近江国金森(かねがもり)の善従の勧めによるとも、野村の年寄りである海老名五郎左衛門入道浄乗の召請によるともいわれる。
その後、山科本願寺は繁栄をきわめたが、天文元年(1532)、細川晴元の意を受けた六角定頼と日蓮宗徒に攻められて焼失し、本願寺の寺基は大坂へ移された。山科本願寺の跡地には蓮如・実如・証如の墓があるのみで荒廃したが、享保17年(1732)、本願寺15代住如は本願寺派北山別院の本堂を移築し、本願寺派の山科別院 (京都市山科区東野狐薮町) として再興した。また同年、大谷派17代真如は東本願寺境内にあった長福寺を移築し、大谷派の山科別院 (京都市山科区竹鼻サイカシ町) として再興した。(浄土真宗辞典)

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