「遊戯」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
4行目: | 4行目: | ||
菩薩が衆生を[[教化]]・[[救済]]するさまを表した語。『論註』(証巻引文・([[証巻#P--334|註 334]])では、<br /> | 菩薩が衆生を[[教化]]・[[救済]]するさまを表した語。『論註』(証巻引文・([[証巻#P--334|註 334]])では、<br /> | ||
− | 自在の義 (自由自在であること)、[[度無所度]]の義 (衆生を救いながらも救っているというとらわれがないこと) の二義を挙げる。→[[五種の功徳]] | + | 自在の義 (自由自在であること)、[[度無所度]]の義 (衆生を救いながらも救っているというとらわれがないこと) の二義を挙げる。→[[五種の功徳]]。(浄土真宗辞典) |
}} | }} | ||
11行目: | 11行目: | ||
::<思いのままに>というのには二つの意味がある。一つには自由自在という意味である。浄土の菩薩が衆生を救うのは、たとえば獅子がいともたやすく鹿を捕えるようなものであり、それは自由自在なのである。二つには衆生を救いながらも救うというとらわれがないという意味である。浄土の菩薩が衆生を観ずるとき、実体があるとみるのではない。数限りない衆生を救いながら、一人としてさとりを得させたというとらわれがない。衆生を救うはたらきをあらわすことに、とらわれがないのである。 | ::<思いのままに>というのには二つの意味がある。一つには自由自在という意味である。浄土の菩薩が衆生を救うのは、たとえば獅子がいともたやすく鹿を捕えるようなものであり、それは自由自在なのである。二つには衆生を救いながらも救うというとらわれがないという意味である。浄土の菩薩が衆生を観ずるとき、実体があるとみるのではない。数限りない衆生を救いながら、一人としてさとりを得させたというとらわれがない。衆生を救うはたらきをあらわすことに、とらわれがないのである。 | ||
− | + | :→[[園林遊戯地門]] | |
− | [[Category:追記]] <p id="page-top">[[#|▲]]</p> | + | |
+ | [[Category:追記]]<p id="page-top">[[#|▲]]</p> |
2024年6月18日 (火) 12:35時点における最新版
ゆげ
ゆげ 遊戯
菩薩が衆生を教化・救済するさまを表した語。『論註』(証巻引文・(註 334)では、
自在の義 (自由自在であること)、度無所度の義 (衆生を救いながらも救っているというとらわれがないこと) の二義を挙げる。→五種の功徳。(浄土真宗辞典)
- 〈遊戯〉に二つの義あり。一つには自在の義。菩薩衆生を度(ど)す。たとへば獅子の鹿を搏(う)つに、所為はばからざるがごときは、遊戯するがごとし。二つには度無所度の義なり。菩薩衆生を観ずるに、畢竟じて所有なし。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし。(証巻 P.334)
- 現代語:
- <思いのままに>というのには二つの意味がある。一つには自由自在という意味である。浄土の菩薩が衆生を救うのは、たとえば獅子がいともたやすく鹿を捕えるようなものであり、それは自由自在なのである。二つには衆生を救いながらも救うというとらわれがないという意味である。浄土の菩薩が衆生を観ずるとき、実体があるとみるのではない。数限りない衆生を救いながら、一人としてさとりを得させたというとらわれがない。衆生を救うはたらきをあらわすことに、とらわれがないのである。
- 現代語: