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「自由の妄説」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「自由といふ漢語は自らに<kana>由(よ)</kana>るという意味。由は「よる」とか「もとづく」といふ意で、仏教では仏の教法ではな...」)
 
 
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自由といふ漢語は自らに<kana>由(よ)</kana>るという意味。由は「よる」とか「もとづく」といふ意で、仏教では仏の教法ではなく自らの妄想に<kana>由(よ)</kana>って思想することを否定的する「自由の妄説」として用いられた。明治期の先人は、「Freedom」とか「Liberty」といふ西欧語の概念を自由と翻訳した。
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自由といふ漢語は自らに<kana>由(よ)</kana>るという意味。由は「よる」とか「もとづく」といふ意で、仏教では仏の教法ではなく自らの妄想に<kana>由(よ)</kana>って思想することを「自由の妄説」などと否定的的に用いられた。明治期の先人は、「Freedom」とか「Liberty」といふ西欧語の概念を自由と翻訳した。
 
そこから、
 
そこから、
 
:①他から干渉や束縛を受けない状態。「言論の―」  
 
:①他から干渉や束縛を受けない状態。「言論の―」  

2023年6月2日 (金) 15:56時点における最新版

自由といふ漢語は自らに()るという意味。由は「よる」とか「もとづく」といふ意で、仏教では仏の教法ではなく自らの妄想に()って思想することを「自由の妄説」などと否定的的に用いられた。明治期の先人は、「Freedom」とか「Liberty」といふ西欧語の概念を自由と翻訳した。 そこから、

①他から干渉や束縛を受けない状態。「言論の―」
②思いのままであるさま。「―に遊ぶ」

といふ意味が派生した。

なお、釈尊は、 「自灯明 法灯明(この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ。)」 と示された。

洲渚
自灯明・法灯明