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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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きょうにょ 教如 (1558-1614)
 
きょうにょ 教如 (1558-1614)
  
 大谷派12代。11代顕如の長男。童名は茶々丸、諱は光寿、号して信浄院という。元亀元年 (1570) に得度し、嗣法となったが、石山合戦末期、顕如に反して徹底抗戦の姿勢を見せたため、父との間に不和が生じ義絶される。織田信長の死後に和解し、文禄元年 (1592)、顕如の示寂により本願寺を継職したが、豊臣秀吉の裁断により弟准如(じゅんにょ)が継職することとなり、隠退して御裏方(おうらかた)などと称された。慶長7年 (1602)、徳川家康の寄進により京都七条烏丸に本願寺を別立した (現在の東本願寺)。(浄土真宗辞典)}}
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 大谷派12代。11代顕如の長男。童名は茶々丸、諱は光寿、号して信浄院という。元亀元年 (1570) に得度し、嗣法となったが、石山合戦末期、顕如に反して徹底抗戦の姿勢を見せたため、父との間に不和が生じ義絶される。織田信長の死後に和解し、文禄元年 (1592)、顕如の示寂により本願寺を継職したが、豊臣秀吉の裁断により弟准如(じゅんにょ)が継職することとなり、隠退して御裏方(おうらかた)などと称された。慶長7年 (1602)、徳川家康の寄進により京都七条烏丸に本願寺を別立した (現在の東本願寺)。(浄土真宗辞典)
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2023年12月4日 (月) 13:30時点における最新版

きょうにょ

きょうにょ 教如 (1558-1614)

 大谷派12代。11代顕如の長男。童名は茶々丸、諱は光寿、号して信浄院という。元亀元年 (1570) に得度し、嗣法となったが、石山合戦末期、顕如に反して徹底抗戦の姿勢を見せたため、父との間に不和が生じ義絶される。織田信長の死後に和解し、文禄元年 (1592)、顕如の示寂により本願寺を継職したが、豊臣秀吉の裁断により弟准如(じゅんにょ)が継職することとなり、隠退して御裏方(おうらかた)などと称された。慶長7年 (1602)、徳川家康の寄進により京都七条烏丸に本願寺を別立した (現在の東本願寺)。(浄土真宗辞典)

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