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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
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 現在の京都市の東大谷、円山公園、知恩院境内地一帯の地名。
 
 現在の京都市の東大谷、円山公園、知恩院境内地一帯の地名。
  
法然上人(1133-1212)が[[専修]](せんじゅ)[[念仏]]を創唱された[[吉水]]の草庵や、示寂された大谷の禅房はこの地にあった。
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法然上人(1133-1212)が[[専修念仏]]を創唱された[[吉水]]の草庵や、示寂された大谷の禅房はこの地にあった。
  
 
弘長二年(1262)[[親鸞聖人]]の遺骨をこの地に納め、文永九年(1272)吉水の北辺に改葬して廟堂(びょうどう)(現在の崇泰院(そうたいいん)境内にあたる)を建てたといわれ、のちこれを大谷本願寺と称した。
 
弘長二年(1262)[[親鸞聖人]]の遺骨をこの地に納め、文永九年(1272)吉水の北辺に改葬して廟堂(びょうどう)(現在の崇泰院(そうたいいん)境内にあたる)を建てたといわれ、のちこれを大谷本願寺と称した。
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2020年1月24日 (金) 08:51時点における最新版

大谷

 現在の京都市の東大谷、円山公園、知恩院境内地一帯の地名。

法然上人(1133-1212)が専修念仏を創唱された吉水の草庵や、示寂された大谷の禅房はこの地にあった。

弘長二年(1262)親鸞聖人の遺骨をこの地に納め、文永九年(1272)吉水の北辺に改葬して廟堂(びょうどう)(現在の崇泰院(そうたいいん)境内にあたる)を建てたといわれ、のちこれを大谷本願寺と称した。 廟所は、慶長八年(1603)十月に東山五条坂の地に移転した。龍谷山の山号は「豅」の字が「大谷、大きくて長い谷」を意味することによるといわれる。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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大谷本願寺