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「一行三昧」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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いちぎょうざんまい
 
いちぎょうざんまい
  
 『文殊般若経』では、真如法界の平等一相を観ずることを一行三昧といい、この[[三昧]]に入るためにはもっぱら念仏せよとある。善導大師はこの意をうけてただ念仏の一行を修することを一行三昧とした。([[行巻#P--163|行巻 P.163]])
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 <kana>真如(しんにょ)</kana><kana>法界(ほうかい)</kana>の平等一相を観ずる三昧。 『<kana>文殊(もんじゅ)</kana><kana>般若(はんにゃ)</kana><kana>経(きょう)</kana>』ではこれに入るための方便として専称名字を勧励しているが、<kana>道(どう)</kana><kana>綽(しゃく)</kana><kana>禅(ぜん)</kana><kana>師(じ)</kana>、<kana>善導(ぜんどう)</kana>大師は阿弥陀一仏の名字を専称することを一行三昧の意とされる。 ([[行巻#P--163|行巻 P.163]])
  
 
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2010年5月5日 (水) 15:49時点における版

いちぎょうざんまい

 真如(しんにょ)法界(ほうかい)の平等一相を観ずる三昧。 『文殊(もんじゅ)般若(はんにゃ)(きょう)』ではこれに入るための方便として専称名字を勧励しているが、(どう)(しゃく)(ぜん)()善導(ぜんどう)大師は阿弥陀一仏の名字を専称することを一行三昧の意とされる。 (行巻 P.163)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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