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「若不生者のちかひ」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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『大経』の四十八願に、衆生の「生因三願」として、第十八願、第十九願、第二十願の三願が説かれるのだが、法然聖人が第十八願を「王本願」とされたように「第十八願」が根本の願であった。それは、第十八願に「若不生者 不取正覚(もし、生ぜずば正覚を取らず)」と、あるからである。それは自己としての阿弥陀仏が他なる衆生を、他なる己として「他己」として摂取するからであった。<br />
:若不生者のちかひゆゑ
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他力とは、阿弥陀仏の本願力による救済に自己のはからいを捨てて仏に全託することであった。それは、また仏に証せられることであった。<br />
: 信楽まことにときいたり
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近代の仏教では「[[自覚]]」という自己認識の語を使うのだが、自己が自己を知るというとは、知る自分と知られる自分とは、区別されると同時に、同一の自己というパラドックスであった。越前の山奥にで仏道修行をされた道元禅師は、
: 一念慶喜するひとは
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: 往生かならずさだまりぬ
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:佛道ヲナラフトイフハ。自己ヲナラフナリ。自己ヲナラフトイフハ。自己ヲワスルルナリ。自己ヲワスルルトイフハ。萬法ニ證セラルルナリ。萬法ニ證セラルルトイフハ。自己ノ身心オヨヒ他己ノ身心ヲシテ脱落セシムルナリ。[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T2582_.82.0023c19.html 正法眼藏現成公案]
:十方諸有の衆生は
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::佛道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心およひ他己の身心をして脱落せしむるなり。
: 阿弥陀至徳の御名をきき
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と、自己を他己と表現されたのは秀逸であった。
: 真実信心いたりなば
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: おほきに所聞を慶喜せん
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(91)
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:無上上は真解脱
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: 真解脱は如来なり
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: 真解脱にいたりてぞ
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: 無愛無疑とはあらはるる
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(92)
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:平等心をうるときを
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: 一子地となづけたり
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: 一子地は仏性なり
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: 安養にいたりてさとるべし
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(93)
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:如来すなはち涅槃なり
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: 涅槃を仏性となづけたり
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: 凡地にしてはさとられず
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: 安養にいたりて証すべし
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:如来すなはち涅槃なり
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: 涅槃を仏性となづけたり
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: 凡地にしてはさとられず
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: 安養にいたりて証すべし
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2018年10月26日 (金) 22:15時点における版

『大経』の四十八願に、衆生の「生因三願」として、第十八願、第十九願、第二十願の三願が説かれるのだが、法然聖人が第十八願を「王本願」とされたように「第十八願」が根本の願であった。それは、第十八願に「若不生者 不取正覚(もし、生ぜずば正覚を取らず)」と、あるからである。それは自己としての阿弥陀仏が他なる衆生を、他なる己として「他己」として摂取するからであった。
他力とは、阿弥陀仏の本願力による救済に自己のはからいを捨てて仏に全託することであった。それは、また仏に証せられることであった。
近代の仏教では「自覚」という自己認識の語を使うのだが、自己が自己を知るというとは、知る自分と知られる自分とは、区別されると同時に、同一の自己というパラドックスであった。越前の山奥にで仏道修行をされた道元禅師は、

佛道ヲナラフトイフハ。自己ヲナラフナリ。自己ヲナラフトイフハ。自己ヲワスルルナリ。自己ヲワスルルトイフハ。萬法ニ證セラルルナリ。萬法ニ證セラルルトイフハ。自己ノ身心オヨヒ他己ノ身心ヲシテ脱落セシムルナリ。正法眼藏現成公案
佛道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心およひ他己の身心をして脱落せしむるなり。

と、自己を他己と表現されたのは秀逸であった。