「無漏」の版間の差分
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2018年7月10日 (火) 23:13時点における最新版
むろ
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
うろのノートから転送
漏は(梵)アースラヴァāsrava の訳。漏泄の意味で、煩悩のこと。煩悩があることを有漏といい、ないことを無漏という。有漏はまた有染(うぜん)、有染汚(うぜんま)、有諍(うじょう)ともいわれる。染も染汚も諍も煩悩のことである。また誤った見解を生ずる拠り所であるから見処ともいう。
有部では、煩悩を随増する(即ち煩悩と随順し、煩悩を増長する)ものを有漏法とし、そうでないものを無漏法とする。即ち、四諦の中で迷いの因と果とである苦集二諦の諸法は有漏法であり、さとりの果と因である滅道二諦の諸法は無漏法である。
有漏の肉体を有漏身、有漏の境界(迷いの世界)を有漏路ともいい、無漏清浄の仏身を無漏身、無漏清浄の境界(さとりの世界)を無漏路という。
多くの世俗の法を対象として起こる智慧を有漏智といい、四諦の理を証見する見道以後の聖者の智慧を無漏智という。
また見道に至るまでの凡夫が起こす善を有漏善といい、見道に入ってからの聖者が起こす煩悩のけがれのない善を無漏善という。有漏智によって行う世俗の行為を有漏行、有漏智によって修める六行観を有漏道といい、無漏智によって修める四諦の観行をなどを無漏行、無漏道という。
有漏道によって煩悩を断つのを有漏断、無漏道によって煩悩を断つのを無漏断という。
有漏道は、人間・天上などの五趣の有漏果を招くから有漏因ともいわれ、無漏行は涅槃のさとりである無漏果を得るから無漏因といわれる。
凡夫が六行観を修めて住する四禅・四無色定・四無量心定などの禅定を有漏定、有漏禅といい、聖者が無漏智を発得する禅定を無漏定と、無漏禅という。無漏定は無漏の九地(未至定・中間定・四根本定・下三無色定)において起こされる。法相宗では仏果の浄識を無漏識といい、仏果に至る以前の識を有漏識という。ただし、第六識・第七識は初地入見道において一分転識得智して無漏智となるとし、前五識と第八識とは仏果に至ってはじめて無漏識となるとする。
無漏のさとりを本来寂然たる面を無漏無為といい、それが作用し起動する面を無漏有為とする。(仏教学辞典)
インクルード:新纂浄土宗大辞典から
むろ・うろ/無漏・有漏
無漏とは単に煩悩を増大させないものと、煩悩や業を滅ぼすように働きかけるもの。有漏とは煩悩の対象となり、または他の煩悩に働きかけて、煩悩を増大させるもの。ⓈanāsravaⓈsāsravaⓅanāsavaⓅsāsavaⓉzag pa med pa, zag medⓉzag pa dang bcas pa, zag bcas。「漏」は煩悩の異名。『大毘婆沙論』四七([1]では「迷いの境涯に留めるもの」「六処の門から流れ出るもの」「輪廻に縛りつけるもの」などの意味が与えられている。有部アビダルマでは、三つの無為法(虚空・択滅=涅槃・非択滅)と道諦(無漏の智慧等)とが無漏であり、それ以外のすべてが有漏である。仏陀の身体が有漏であるか無漏であるかなどについては学派間で異論があった。浄土についても、唯識学派では仏陀にとっては無漏、凡夫にとっては有漏とされるなど、学派間で異論がある。浄土宗では善導が「自然は即ち是れ弥陀国なり。無漏・無生にして還って即ち真なり」(『法事讃』下、浄全四・一八下)、「かの界は位、これ無漏無生の界なり」(『観経疏』定善義、聖典二・二五五/浄全二・四一上)、「云何ぞ一生の修福、念仏をもって、すなわちかの無漏無生の国に入って、永く不退の位を証悟することを得んや」(『観経疏』散善義、聖典二・二九五~六/浄全二・五九上、『選択集』聖典三・一四六~七/浄全七・四一)と述べ、法然もそれを継承して極楽浄土を無漏の境界であるとする。これは極楽浄土の環境が、そこにいる衆生の煩悩を増大させず、煩悩を断じるように働くことを示している。
【資料】『大毘婆沙論』四四
【参考】榎本文雄「初期仏典におけるāsrava(漏)」(『南都仏教』五〇、一九八三)
【参照項目】➡有相浄土
【執筆者:本庄良文】