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「自力」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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自力とは、自分ひとりの力の意である。
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通常には、自力とは、自分ひとりの力の意である。
  
仏教で使われる場合は、悟りへ到るための修行によって、修得した能力が自分に備わる力を自力という。または、自分の修行によって悟りを開こうとすること。<br />
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しかし、仏教で使われる自力とは、悟りへ到るための修行によって、修得した能力が自分自身に備わることを自力という。また、自分の修行による功徳・利益を、自分一人で受け取ることを自力という。<br />
浄土門においては種々に論じられるが、浄土真宗の場合は、阿弥陀如来の本願力に依らないで、自己の能力によって往生浄土しようとすることを自力という。
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浄土門においては種々に論じられるが、浄土真宗の場合は、如(悟りの世界)より来生している阿弥陀如来の本願を疑うことを自力という。人々に功徳・利益を施して、悟りの世界を示し、救済しつつある阿弥陀如来の救済(本願)を拒絶していることを自力というのである。仏陀の悟りの智慧の顕現である本願を、疑惑する自分自身のはからいのことを自力というのである。<br />
大乗菩薩道は、[[自利]]と[[利他]]を修することで悟りへの道を歩むのであるが、親鸞聖人は、この自利を自力とし利他を他力とされる場合もある。
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このように、本願に背き自己の想念に迷っていることを親鸞聖人は自力というのであって、世間にあって自助努力することを意味する自力という言葉とは、質的な次元が違う言葉なのである。この意味を取り違えると浄土真宗における自力のはからいの否定が、世間における自助努力を否定し怠惰な無力主義に陥るのである、<br />
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また、大乗の菩薩は、自利(自らが悟りを得る利益)と利他(他者を悟りへ誘う利益を与えること)の二利を修することで悟りへの道を歩むのであるが、親鸞聖人は、この自利を自力とし、利他を他力ともされる。何故なら真実の自利は法蔵菩薩の願行においてのみ論じられるものであり、その自力(自利)によって回向される客体が、利他の対象である衆生であるからである。

2012年6月23日 (土) 09:52時点における版

通常には、自力とは、自分ひとりの力の意である。

しかし、仏教で使われる自力とは、悟りへ到るための修行によって、修得した能力が自分自身に備わることを自力という。また、自分の修行による功徳・利益を、自分一人で受け取ることを自力という。
浄土門においては種々に論じられるが、浄土真宗の場合は、如(悟りの世界)より来生している阿弥陀如来の本願を疑うことを自力という。人々に功徳・利益を施して、悟りの世界を示し、救済しつつある阿弥陀如来の救済(本願)を拒絶していることを自力というのである。仏陀の悟りの智慧の顕現である本願を、疑惑する自分自身のはからいのことを自力というのである。
このように、本願に背き自己の想念に迷っていることを親鸞聖人は自力というのであって、世間にあって自助努力することを意味する自力という言葉とは、質的な次元が違う言葉なのである。この意味を取り違えると浄土真宗における自力のはからいの否定が、世間における自助努力を否定し怠惰な無力主義に陥るのである、
また、大乗の菩薩は、自利(自らが悟りを得る利益)と利他(他者を悟りへ誘う利益を与えること)の二利を修することで悟りへの道を歩むのであるが、親鸞聖人は、この自利を自力とし、利他を他力ともされる。何故なら真実の自利は法蔵菩薩の願行においてのみ論じられるものであり、その自力(自利)によって回向される客体が、利他の対象である衆生であるからである。