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「無量光明土」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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むりょうこうみょうど
 
 
 阿弥陀仏の浄土のこと。はかりなき光明の世界。『平等覚経』に出る語で、元来は「無量の光明土」(諸仏土)の意であるが、親鸞聖人は阿弥陀仏の浄土に諸仏土がすべておさまるとし、「無量光明の土」(弥陀浄土)の意に転じている。→<kana>[[真実]](しんじつ)</kana>、[[補註2]] ([[行巻#P--145|行巻 P.145]], [[真巻#P--339|真巻 P.339]], [[浄文#P--487|浄文 P.487]], [[愚禿上#P--514|愚禿 P.514]])
 
 
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[[Category:巻末註]]
 
 
 
 
仏教で光とは智慧の意であり、親鸞聖人は阿弥陀如来の浄土を無量光明土であるとされた。
 
仏教で光とは智慧の意であり、親鸞聖人は阿弥陀如来の浄土を無量光明土であるとされた。
  

2012年7月1日 (日) 02:20時点における版

仏教で光とは智慧の意であり、親鸞聖人は阿弥陀如来の浄土を無量光明土であるとされた。

また煩悩を具足せるわれら、無碍光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。『弥陀如来名号徳』
 まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。『教行証文類』「両重因縁釈」。

無量光明土は、『無量寿経』の異訳である『平等覚経』の以下の文。
 速疾超便可到 安楽国之世界。
 至無量光明土 供養於無数仏。

すみやかに疾(と)く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。

からのものである。 『平等覚経』で説かれる、無量の諸仏の光明土の意味を転じて、阿弥陀如来の浄土を無量の光明の土、すなわち智慧の土とされた。

『尊号真像銘文』で「帰命尽十方無碍光如来」を釋され、

「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。

と、「無碍」と「光如来」に分節され、阿弥陀如来を「光如来」とされておられるのも同じ意である。阿弥陀仏とは智慧の光の如来であるとされるのである。また、浄土とは、この阿弥陀如来の悟りの智慧によって荘厳される世界であり、土もまた智慧の世界であるということが「無量光明土」の意味であった。この阿弥陀如来の智慧の領域が「誓願一仏乗」といわれ、あらゆる仏陀を仏陀たらしめる根源である。そして、あらゆる衆生を救済する本願力の根源であった。そして、その智慧が大悲として「名声聞十方」と、称えられ聞こえるのが、なんまんだぶという言葉であったのである。