「首楞厳経」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | + | {{Kaisetu|太字は、親鸞聖人が『尊号真像銘文』[[尊号真像銘文#no4|(*)]]で引文されておられる。また『浄土和讃』「勢至讃」[[浄土和讃#.E5.8B.A2.E8.87.B3.E8.AE.83|(*)]]で、以下の、勢至獲[[念仏円通]]を讃詠されておられる。和讃末尾の注記に「源空聖人御本地なり。」とあるように、法然聖人を讃嘆されたもの。親鸞聖人は、智慧第一にして勢至菩薩の生まれ変わりと称せられた法然聖人から念仏の道を聞信され、念仏によって'''円'''(まどか)な悟りに'''通'''達することを感佩されておられる。}} | |
[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0945_,19,0128a21:0945_,19,0128b07.html 大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經]卷第五<br /> | [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0945_,19,0128a21:0945_,19,0128b07.html 大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經]卷第五<br /> | ||
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▼勢至獲念仏円通 | ▼勢至獲念仏円通 | ||
− | ''' | + | '''大勢至法王子。與其同倫 五十二菩薩 即從座起。頂禮佛足 而白佛言。我憶往昔 恒河沙劫。有佛出世 名無量光。 |
− | + | :大勢至法王子、その同倫(おなじともがら)の五十二菩薩と、すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、われ往昔の恒河沙劫を憶ふに、仏ありて世に出でます。無量光と名づく。 | |
− | '''如染香人 身有香氣。此則名曰香光莊嚴。我本因地以念佛心 入無生忍。今於此界 攝念佛人歸於淨土。''' | + | 十二如來 相繼一劫。其最後佛 名超日月光。 |
− | 佛問圓通 我無選擇 都攝六根淨念。相繼得三摩地 斯爲第一。 | + | :十二の如来、一劫にあひ継ぎ、その最後の仏を超日月光と名づく。 |
+ | 彼佛教我 念佛三昧'''。 | ||
+ | :かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ。 | ||
+ | 譬如有人 一專爲憶 一人專忘。 | ||
+ | :たとえば、人ありて、一は專ら憶を為し、一人は專ら忘るるごとし。 | ||
+ | 如是二人 若逢不逢 或見非見。 | ||
+ | :かくのごときの二人、もしは逢い(もしは)逢わず、あるいは見、(あるいは)見ること非ず。 | ||
+ | 二人相憶 二憶念深。如是乃至從生至生。同於形影 不相乖異。<br> | ||
+ | :二人あい憶うて二の憶念深ければ、かくのごとく乃至して、生より生に至るに、形と影とに同じくして、あい乖き異らず。 | ||
+ | 十方如來 憐念衆生 如母憶子。 | ||
+ | :十十方の如來、衆生を憐念すること母の子を憶ふがごとし。 | ||
+ | 若子逃逝 雖憶何爲 子若憶母如母憶時。母子歴生不相違遠。 | ||
+ | :もし子、逝きて逃れ、憶ふといえども何か為ん。子もし母を憶すれば母の憶ふときのごとし。母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。 | ||
+ | '''若衆生心憶佛念佛。現前當來必定見佛 去佛不遠。不假方便自得心開。''' | ||
+ | :もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便をからず、おのづから心開かるることを得ん。 | ||
+ | '''如染香人 身有香氣。此則名曰香光莊嚴。我本因地以念佛心 入無生忍。今於此界 攝念佛人歸於淨土。''' | ||
+ | :染香人の身に香気あるがごとし。これすなはち名づけて香光荘厳といふ。我もと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ。 | ||
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+ | 佛問圓通 我無選擇 都攝六根淨念。相繼得三摩地 斯爲第一。 | ||
+ | :佛、圓通を問ひたまふ、我、選擇すること無く、すべて六根を攝し、淨念あい繼ぎて三摩地を得る、これを第一と為す。 | ||
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大佛頂萬行首楞嚴經卷第五<br> | 大佛頂萬行首楞嚴經卷第五<br> | ||
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試訳:(乞う添削)<br /> | 試訳:(乞う添削)<br /> | ||
大勢至法王子、その同倫(おなじともがら)の五十二菩薩と、すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、われ往昔の恒河沙劫を憶ふに、仏ありて世に出でます。無量光と名づく。十二の如来、一劫にあひ継ぎ、その最後の仏を超日月光と名づく。かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ。<br /> | 大勢至法王子、その同倫(おなじともがら)の五十二菩薩と、すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、われ往昔の恒河沙劫を憶ふに、仏ありて世に出でます。無量光と名づく。十二の如来、一劫にあひ継ぎ、その最後の仏を超日月光と名づく。かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ。<br /> | ||
− | + | たとえば、人ありて、一は專ら憶を為し、一人は專ら忘るるごとし。かくのごときの二人、もしは逢い(もしは)逢わず、あるいは見、(あるいは)見ること非ず。二人あい憶うて二の憶念深ければ、かくのごとく乃至して、生より生に至るに、形と影とに同じくして、あい乖き異らず。十方の如來、衆生を憐念すること母の子を憶ふがごとし。もし子、逝きて逃れ、憶ふといえども何か為ん。子もし母を憶すれば母の憶ふときのごとし。母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。 | |
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もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便をからず、おのづから心開かるることを得ん。<br /> | もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便をからず、おのづから心開かるることを得ん。<br /> | ||
染香人の身に香気あるがごとし。これすなはち名づけて香光荘厳といふ。我もと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ。 | 染香人の身に香気あるがごとし。これすなはち名づけて香光荘厳といふ。我もと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ。 | ||
− | + | 佛、圓通を問ひたまふ、我、選擇すること無く、すべて六根を攝し、淨念あい繼ぎて三摩地を得る、これを第一と為す。 | |
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2013年1月19日 (土) 15:14時点における版
▼勢至獲念仏円通
大勢至法王子。與其同倫 五十二菩薩 即從座起。頂禮佛足 而白佛言。我憶往昔 恒河沙劫。有佛出世 名無量光。
- 大勢至法王子、その同倫(おなじともがら)の五十二菩薩と、すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、われ往昔の恒河沙劫を憶ふに、仏ありて世に出でます。無量光と名づく。
十二如來 相繼一劫。其最後佛 名超日月光。
- 十二の如来、一劫にあひ継ぎ、その最後の仏を超日月光と名づく。
彼佛教我 念佛三昧。
- かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ。
譬如有人 一專爲憶 一人專忘。
- たとえば、人ありて、一は專ら憶を為し、一人は專ら忘るるごとし。
如是二人 若逢不逢 或見非見。
- かくのごときの二人、もしは逢い(もしは)逢わず、あるいは見、(あるいは)見ること非ず。
二人相憶 二憶念深。如是乃至從生至生。同於形影 不相乖異。
- 二人あい憶うて二の憶念深ければ、かくのごとく乃至して、生より生に至るに、形と影とに同じくして、あい乖き異らず。
十方如來 憐念衆生 如母憶子。
- 十十方の如來、衆生を憐念すること母の子を憶ふがごとし。
若子逃逝 雖憶何爲 子若憶母如母憶時。母子歴生不相違遠。
- もし子、逝きて逃れ、憶ふといえども何か為ん。子もし母を憶すれば母の憶ふときのごとし。母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。
若衆生心憶佛念佛。現前當來必定見佛 去佛不遠。不假方便自得心開。
- もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便をからず、おのづから心開かるることを得ん。
如染香人 身有香氣。此則名曰香光莊嚴。我本因地以念佛心 入無生忍。今於此界 攝念佛人歸於淨土。
- 染香人の身に香気あるがごとし。これすなはち名づけて香光荘厳といふ。我もと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ。
佛問圓通 我無選擇 都攝六根淨念。相繼得三摩地 斯爲第一。
- 佛、圓通を問ひたまふ、我、選擇すること無く、すべて六根を攝し、淨念あい繼ぎて三摩地を得る、これを第一と為す。
大佛頂萬行首楞嚴經卷第五
試訳:(乞う添削)
大勢至法王子、その同倫(おなじともがら)の五十二菩薩と、すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、われ往昔の恒河沙劫を憶ふに、仏ありて世に出でます。無量光と名づく。十二の如来、一劫にあひ継ぎ、その最後の仏を超日月光と名づく。かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ。
たとえば、人ありて、一は專ら憶を為し、一人は專ら忘るるごとし。かくのごときの二人、もしは逢い(もしは)逢わず、あるいは見、(あるいは)見ること非ず。二人あい憶うて二の憶念深ければ、かくのごとく乃至して、生より生に至るに、形と影とに同じくして、あい乖き異らず。十方の如來、衆生を憐念すること母の子を憶ふがごとし。もし子、逝きて逃れ、憶ふといえども何か為ん。子もし母を憶すれば母の憶ふときのごとし。母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。
もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便をからず、おのづから心開かるることを得ん。
染香人の身に香気あるがごとし。これすなはち名づけて香光荘厳といふ。我もと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ。
佛、圓通を問ひたまふ、我、選擇すること無く、すべて六根を攝し、淨念あい繼ぎて三摩地を得る、これを第一と為す。