「首楞厳経」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:二人あい憶うて二の憶念深ければ、かくのごとく乃至して、生より生に至るに、形と影とに同じくして、あい乖き異らず。 | :二人あい憶うて二の憶念深ければ、かくのごとく乃至して、生より生に至るに、形と影とに同じくして、あい乖き異らず。 | ||
十方如來 憐念衆生 如母憶子。 | 十方如來 憐念衆生 如母憶子。 | ||
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若子逃逝 雖憶何爲 子若憶母如母憶時。母子歴生不相違遠。 | 若子逃逝 雖憶何爲 子若憶母如母憶時。母子歴生不相違遠。 | ||
:もし子、逝きて逃れ、憶ふといえども何か為ん。子もし母を憶すれば母の憶ふときのごとし。母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。 | :もし子、逝きて逃れ、憶ふといえども何か為ん。子もし母を憶すれば母の憶ふときのごとし。母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。 |
2013年3月19日 (火) 08:04時点における版
▼勢至獲念仏円通
大勢至法王子。與其同倫 五十二菩薩 即從座起。頂禮佛足 而白佛言。我憶往昔 恒河沙劫。有佛出世 名無量光。
- 大勢至法王子、その同倫(おなじともがら)の五十二菩薩と、すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、われ往昔の恒河沙劫を憶ふに、仏ありて世に出でます。無量光と名づく。
十二如來 相繼一劫。其最後佛 名超日月光。
- 十二の如来、一劫にあひ継ぎ、その最後の仏を超日月光と名づく。
彼佛教我 念佛三昧。
- かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ。
譬如有人 一專爲憶 一人專忘。
- たとえば、人ありて、一は專ら憶を為し、一人は專ら忘るるごとし。
如是二人 若逢不逢 或見非見。
- かくのごときの二人、もしは逢い(もしは)逢わず、あるいは見、(あるいは)見ること非ず。
二人相憶 二憶念深。如是乃至從生至生。同於形影 不相乖異。
- 二人あい憶うて二の憶念深ければ、かくのごとく乃至して、生より生に至るに、形と影とに同じくして、あい乖き異らず。
十方如來 憐念衆生 如母憶子。
- 十方の如來、衆生を憐念すること母の子を憶ふがごとし。
若子逃逝 雖憶何爲 子若憶母如母憶時。母子歴生不相違遠。
- もし子、逝きて逃れ、憶ふといえども何か為ん。子もし母を憶すれば母の憶ふときのごとし。母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。
若衆生心憶佛念佛。現前當來必定見佛 去佛不遠。不假方便自得心開。
- もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便をからず、おのづから心開かるることを得ん。
如染香人 身有香氣。此則名曰香光莊嚴。我本因地以念佛心 入無生忍。今於此界 攝念佛人歸於淨土。
- 染香人の身に香気あるがごとし。これすなはち名づけて香光荘厳といふ。我もと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ。
佛問圓通 我無選擇 都攝六根淨念。相繼得三摩地 斯爲第一。
- 佛、圓通を問ひたまふ、我、選擇すること無く、すべて六根を攝し、淨念あい繼ぎて三摩地を得る、これを第一と為す。
大佛頂萬行首楞嚴經卷第五
試訳:(乞う添削)
大勢至法王子、その同倫(おなじともがら)の五十二菩薩と、すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、われ往昔の恒河沙劫を憶ふに、仏ありて世に出でます。無量光と名づく。十二の如来、一劫にあひ継ぎ、その最後の仏を超日月光と名づく。かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ。
たとえば、人ありて、一は專ら憶を為し、一人は專ら忘るるごとし。かくのごときの二人、もしは逢い(もしは)逢わず、あるいは見、(あるいは)見ること非ず。二人あい憶うて二の憶念深ければ、かくのごとく乃至して、生より生に至るに、形と影とに同じくして、あい乖き異らず。十方の如來、衆生を憐念すること母の子を憶ふがごとし。もし子、逝きて逃れ、憶ふといえども何か為ん。子もし母を憶すれば母の憶ふときのごとし。母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。
もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便をからず、おのづから心開かるることを得ん。
染香人の身に香気あるがごとし。これすなはち名づけて香光荘厳といふ。我もと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ。
佛、圓通を問ひたまふ、我、選擇すること無く、すべて六根を攝し、淨念あい繼ぎて三摩地を得る、これを第一と為す。