操作

「現代語 証巻」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「<div style="border:solid #555 1px;background:#FfFFF5;padding:1.5em;margin:0 auto 1em auto; font-size:110%" > <span id="A--1"></span> 顕浄土真実証文類-漢文#n...」)
 
 
1行目: 1行目:
<div style="border:solid #555 1px;background:#FfFFF5;padding:1.5em;margin:0 auto 1em auto; font-size:110%" >
+
<div id="gendaigo">
  
  
100行目: 100行目:
 
: さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。
 
: さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。
  
==現相廻向釋==
+
==現相回向==
  
  
222行目: 222行目:
  
 
</div>
 
</div>
 +
<p id="page-top">[[#|▲]]</p>

2018年6月27日 (水) 14:12時点における最新版


(1)

 つつしんで、真実の証を顕せば、それは他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、この上ないさとりという果である。この証は必至滅度の願(第十一願)より出てきたものである。この願をまた証大涅槃の願とも名づけることができる。
 さて、煩悩にまみれ、迷いの罪に汚れた衆生が、仏より回向された信と行とを得ると、たちどころに大乗の正定聚の位に入るのである。正定聚の位にあるから、浄土に生れて必ずさとりに至る。必ずさとりに至るということは、常楽我浄という徳をそなえることである。この常楽我浄の徳をそなえるということは煩悩を滅し尽した境地、すなわち畢竟寂滅に住することである。この寂滅はこの上ないさとり、すなわち無上涅槃である。この無上涅槃は消滅変化を超えた真実そのもの、すなわち無為法身である。この無為法身はすべてのものの真実のすがた、すなわち実相である。この実相はすべてのものの変ることのない本性、すなわち法性である。この法性はすべてのものの絶対究極のあり方、すなわち真如である。この真如は相を超えた絶対の一、すなわち一如である。そして阿弥陀仏は、この一如よりかたちを現して、報身・応身・化身などのさまざまなすがたを示してくださるのである。


(2)  必至滅度の願(第11願)の文は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「わたしが仏になったとき、わたしの国の人々が正定聚の位にあり、必ずさとりに至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい」


(3)  また『如来会』に説かれている。

 「わたしが仏になったとき、わたしの国の人々が間違いなく等正覚を成就し、大涅槃をさとらなかったなら、決してさとりを開くまい」


(4)  願(第11願)成就文は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「浄土に生れる人々は、すべて正定聚の位にある。なぜなら、阿弥陀仏の浄土には邪定聚や不定聚のものはいないからである」


(5)  また次のように説かれている(無量寿経)。

 「阿弥陀仏の国や浄く安らかであり、すぐれて楽しく、涅槃のさとりの世界である。その国の声聞・菩薩・神々・人間は、みなすぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。ただ他の世界にならって人間とか神々とかいうだけで、その顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる神々や人間のたぐいではない。すべてのものが、きわまりなくすぐれたさとりの身を得るのである」


(6)  また『如来会』に説かれている。

 「浄土に往生する人々は、みなすべて正定聚のものであり、必ずこの上ないさとりをきわめ、涅槃に至るであろう。なぜなら、邪定聚や不定聚のものは、仏が浄土に往生する因を設けられたことを知らないので、往生することができないからである」


(7)  『往生論註』にいわれている。

 「妙声功徳成就とは、願生偈に、«清らかなさとりの声は実に奥深くすぐれていて、すべての世界に響きわたる»といっていることである>と『浄土論』に述べられている。これがどうして不可思議なのであろうか。教典に、<阿弥陀仏の浄土が清く安らかであることを聞いて、他力の信を得て往生したいと願うものと、また往生したものとは、ともに正定聚に入る>と説かれている。これはその浄土の名が衆生を救うはたらきをするのである。どうして思いはかることができようか。

 また<主功徳成就とは、願生偈に、«阿弥陀仏が法王としてすぐれた力で住持しておられる»といっていることである>と『浄土論』に述べられている。これがどうして不可思議なのであろうか。阿弥陀仏は衆生のはからいを超えておられる。浄土は、この阿弥陀仏のすぐれた力によって住持されているのである。どうして思いはかることができようか。

 <住>とは変らず滅しないことをいい、<持>とは散失しないことをいうのである。たとえば、不朽薬を種に塗ると、水の中でも腐らず、火の中でも焦げず、条件がそろえば芽を出すのと同じである。なぜなら、不朽薬のはたらきによるからである。ひとたび浄土に生れたなら、その人が後に迷いの世界に戻って衆生を導きたいと願い、浄土を離れてその願いの通りに迷いの世界の火の中に生れても、この上ないさとりの種は決して朽ちることはないのである。なぜなら、阿弥陀仏のすぐれた住持の力をすでに受けているからである。

 また<眷属功徳成就とは、願生偈に、«浄土の清浄の人々は、みな阿弥陀仏のさとりの花から化生する»といっていることである>と『浄土論』に述べられている。これがどうして不可思議なのであろうか。この迷いの世界には、胎生や卵生や湿生や化生という生れ方をする多くのものがいて、そこで受ける苦も楽も千差万別である。それはさまざまな迷いの行いに応じて生れるからである。しかし、浄土への往生は、みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの化生である。それは同じ念仏によって生れるのであり、その他の道によるのではないからである。そこで、遠くあらゆる世界に通じて、念仏するものはみな兄弟となるのであり、浄土の仲間は数限りない。どうして思いはかることができようか」


(8)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「浄土への往生を願うものは、この世では九品の違いはあっても、往生してからは何の違いもない。それは、淄と澠の川の水も海に入れば一つの味になるようなものである。どうして思いはかることができようか」


(9)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「<清浄功徳成就>とは、願生偈に、«浄土のあり方を観ずると、迷いの世界を超えている»といっていることである>と『浄土論』に述べられている。これがどうして不可思議なのであろうか。あらゆる煩悩をそなえた凡夫が、阿弥陀仏の浄土に生れると、迷いの世界につなぎとめるこれまでの行いも、もはやその力を失う。これは、自ら煩悩を断ち切らずに、そのまま浄土で涅槃のさとりを得るということである。どうして思いはかることができようか」


(10)  『安楽集』にいわれている。

 「釈尊と阿弥陀仏の不可思議なはたらきは同じはずであるが、釈尊はご自身のはたらきをお述べにならず、ことさらに阿弥陀仏のすぐれていることを明らかにされる。それはすべての人を阿弥陀仏に帰依させたいとお思いになるからである。そこで釈尊は、教典のさまざまなところで阿弥陀仏をほめたたえて帰依するようにお勧めになるのである。このお心をよく知らなければならない。曇鸞大師の本意も西方浄土に帰することにあるから、『讃阿弥陀仏偈』に次のようにいわれている。<浄土の声聞・菩薩・人間・神々は、この上ない智慧をすべてそなえている。姿かたちもみな同じで、何の違いもない。ただ他の世界にならってこのようにいうだけである。顔かたちの端正なことは他にくらべようがなく、その姿の美しいことはいわゆる人間や神々のたぐいでなはい。それはきわまりなくすぐれたさとりの身である。だから、わたしはすべてのものに平等のさとりを得させる阿弥陀仏を礼拝したてまつるのである>」


(11)  善導大師の『観経疏』にいわれている(玄義分)。

 「弘願というのは、『無量寿経』に説かれている通りである。善人も悪人もすべての凡夫が往生できるのは、みな阿弥陀仏の大いなる本願のはたらきをもっともすぐれた力として、それによるからである。

 また仏の思し召しは広くて奥深いから、その教えは容易に知ることができない。三賢・十聖という位にある菩薩でさえはかり知ることはできないのである。ましてわたしは十信の位にも入ることのできない愚かな凡夫である。どうしてその思し召しを知ることができようか。仏のお示しを仰いで考えてみると、釈尊は娑婆世界から、往けとお勧めになり、阿弥陀仏は浄土から、来れといって迎えてくださる。向こうから来れと喚び、こちらから往けとお勧めになる。どうして往かずにおられようか。ただ心から信順し、命終るときには煩悩に汚れた身を捨てて、変ることのないさとりを開くべきである」


(12)  また次のようにいわれている(定善義)。

 「西方浄土は煩悩を滅し尽した変ることのないさとりの世界であって、すべてのとらわれを離れ、はからいがない。西方浄土に生れると、大いなる慈悲の心をおこしてあらゆる世界に行き、さまざまなすがたを現して人々を等しく救済する。あるいは神通力によって教えを説き、あるいは仏のすがたをとって涅槃に入る。思いのままに現し出すうるわしい荘厳は、それを見るものの罪をすべて除き去るのである。またたたえていう。さあ帰ろう、迷いの世界にとどまるべきではない。はかり知れない昔からさまざまな迷いの世界を生れ変わり死に変りし続けてきた。どこにも何の楽しみもなく、ただ嘆き悲しみの声ばかりである。この一生を終えた後には、さとりの浄土に往こう」


(13)

 さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。

現相回向

(14)

 二つに、還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。これは必至補処の願(第二十二願)より出てきたものである。この願をまた一生補処の願と名づける。また還相回向の願とも名づけることができる。これは『往生論註』に明らかにされているので、ここには願文を出さない。『往生論註』を見るがよい。


(15)  『浄土論』にいわれている。

 「出の第五門とは、大慈悲の心をもって、苦しみ悩むすべての衆生を観じて、救うためのさまざまな姿を現し、煩悩に満ちた迷いの世界に還ってきて、神通力をもって思いのままに衆生を教え導く位に至ることである。このようなはたらきは、阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。これを出の第五門という」


(16)  『往生論註』にいわれている。

 「還相というのは、浄土に生れた後、自利の智慧と利他の慈悲を成就することができ、迷いの世界に還ってきてすべての衆生を導き、みなともにさとりに向かわせることである。往相も還相も、みな衆生の苦しみを除いて迷いの世界を離れさせるために与えられたものである。だから、天親菩薩は<衆生に功徳を回向としようとする心を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである>と述べておられる」


(17)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「『浄土論』に、<浄土に往生して阿弥陀仏を見たてまつると、まだ自他のとらわれが残っている菩薩も、ついには平等の真理をさとった身すなわち平等法身となる。すでにとらわれを離れた上位の菩薩方と同じく、ついには寂滅平等の法を得るのである>と述べられている。平等法身とは、八地以上の位にある菩薩の身で、法性から生じた身である。寂滅平等とは、この法身の菩薩のさとる平等の法である。この寂滅平等の法を得るから平等法身というのである。平等法身の菩薩の得るところの法であるから、寂滅平等の法というのである。この菩薩は、報生三昧を得る。この三昧の力により、いながらにして、時を経ず、一度にすべての世界に行って、すべての仏およびその仏のもとに集う大衆を、さまざまに供養する。また、数限りない世界の、仏・法・僧の三宝のないところでさまざまなすがたを現し、すべての衆生をさまざまに導き済い、常に衆生救済のはたらきをする。もとより、行き来するという思い、供養するという思い、救済するという思いはない。そういうわけで、この菩薩の身を平等法身というのであり、この法を寂滅平等の法というのである。まだ自他のとらわれが残っている菩薩というのは、初地から七地までの菩薩である。この菩薩も、百、あるいは千、あるいは万、あるいは億、あるいは百千万億の身を現して、仏のおられない国土で衆生救済のはたらきをすることができるが、その場合、必ず心をはたらかせ努力して三昧に入るのであって、努力することなく三昧に入るのではない。それで、七地までの菩薩はまだ自他のとらわれが残っている、というのである。この菩薩は、浄土に生れて阿弥陀仏を見たいと願う。阿弥陀仏を見るとき、八地以上の菩薩がたとついには同じく平等法身を得、寂滅平等の法をさとることができるのである。龍樹菩薩や天親菩薩のような方々が、阿弥陀仏の浄土に生れたいと願われたのは、まさにただこのためである。

 問うていう。『十地経』をうかがうと、菩薩がその位を進めるのは、限りない功徳を積み、はかり知れないほどの長い時を経て、やっと進めることができるのである。それなのに、阿弥陀仏を見たてまつるとき、ついにはその身も法も八地以上の菩薩がたと等しくなるというのは、どういうわけであろうか。

 答えていう。<ついには>というのはそのままただちに等しくなるということではない。ついには必ず等しくなるから、等しくなるというだけのことである。

 問うていう。もしただちに等しくないのなら、どうして菩薩という必要があろうか。初地の位にまで至れば、そこからだんだんと進んで、おのずから必ず仏と等しくなるはずである。仏と等しいといわずに、どうしてわざわざ八地以上の菩薩と等しいというのか。

 答えていう。菩薩が初地においてすべては本来空であると知ると、上に向かっては求めるべき仏のさとりもなく、下に向かっては救済すべき衆生もないと考える。そして以後の仏道修行を捨ててその境地に安住してしまおうとする。そのときに、もしすべての世界の仏がたがすぐれた力で励ましてくださらなければ、そのまま自分だけのさとりに閉じこもって、声聞や縁覚と同じになってしまう。菩薩が浄土に往生して阿弥陀仏を見たてまつると、このような恐れはないであろう。このようなわけで、ついには八地以上の菩薩と等しくなるという必要があるのである。

 また次に、『無量寿経』の中には、阿弥陀仏の誓願(第二十二願)として、<わたしが仏になったとき、他の仏がたの国の菩薩たちが、わたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。それぞれの希望によって、自由自在に人々を導くため、かたい決意に身を包んで、多くの功徳を積み、すべてのものを救い、仏がたの国に行って菩薩の行を修め、すべての世界の仏がたを供養し、数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることも自由にできる。すなわち、通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、大いなる慈悲の行を実践できる。もしそうでなければ、わたしは決してさとりを開くまい>と説かれている。

 この経文から考えてみると、浄土の菩薩は、初地から二地、二地から三地へと順次に位を進めるのではないであろう。十地という段階は、釈尊がこの娑婆世界に出られて衆生を導かれる一つの教え方なのである。阿弥陀仏の浄土でも、どうしてこれと同じであるといえようか。さまざまな不可思議の中で、仏法がもっとも不可思議である。菩薩は必ず一地ずつ位を進めるのであって、位を飛び超えて進むという道理はないというなら、それは仏法の不可思議ということをよく知らないのである。

 たとえば好堅という木がある。この木が地面から生じて百年たったとしよう。地上に出てからは、毎日百丈ずつ伸びていくのであるが、百年たってこの木の高さを計ったなら、いくら背が高いといっても松の木などでは比較にならない。松の生長するのを見ると、一日に一寸も伸びない。だから世の人が、この好堅の木のことを聞いても、一日に百丈伸びることなど、どうして信じることができようか。ある人は、釈尊が一度の説法でたちまち阿羅漢のさとりを開かせ、朝食前のひとときに無生法忍に至らせたということを聞いて、これはただ仏法に導くためにいわれたことであり、実際の話ではないと思った。そういう人は、浄土の菩薩が位を飛び超えて進むということを聞いても、やはり信じないであろう。そもそも世間の常識を超えた話は普通の人の耳には入らず、聞いてもそういうことはないと思うものである。それも仕方のないことではある。

 『浄土論』に、<略して八種の功徳をあげ、このような順序で仏の自利利他の功徳が成就されていることを示した。よく知るべきである>と述べられている。どのような順序であるのかといえば、さきの十七種は、阿弥陀仏の国土にそなわる功徳の成就である。すでに国土のすがたを知ったから、国土の主を知らなければならない。このようなわけで、次に阿弥陀仏にそなわる八種の功徳を観ずるのである。阿弥陀仏は、功徳をそなえて、どのような座にすわっておられるのか。そこでまず座を観ずるがよい。座を観じたなら、その座の主を知らなければならない。そこで次に仏の身業にそなわる功徳を観ずる。身業について知ったなら、どのような名号をあらわされたのかを知らなければならない。そこで次に仏の口業にそなわる功徳を観ずる。口業により仏の名号があらゆるところに聞えることを知ったなら、その名号を得られた理由を知らなければならない。そこで次に仏の意業にそなわる功徳を観ずる。このようにして、阿弥陀仏が身・口・意の三業すべてに功徳を成就しておられるのを知ったなら、次に人間や神々を導く大師となられた仏の教えを受けるのはだれであるかを知らなければならない。そこで次に仏のもとに集う人々の功徳を観ずる。その人々にははかり知れない功徳があることを知ったなら、その中心となって導くものはだれであるかを知らなければならない。そこで次に中心となるものを観ずる。中心となるのは阿弥陀仏である。人々の中心となるものを知ったが、阿弥陀仏が中心となるのは年の上下によると思われるおそれがある。そこで次に仏は主であることを観ずる。この主を知ったなら、主にはどのようなすぐれた徳があるかを知らなければならない。そこで次に仏力がいつわりでなく変らないという不虚作住持の功徳を観ずる。阿弥陀仏にそなわる八種の功徳の順序はこのようにして成り立っているのである。

 菩薩を観ずるというのは、『浄土論』に、<どのようにして浄土の菩薩にそなわる功徳の成就を観ずるのであろうか。菩薩にそなわる功徳の成就について観ずると、浄土の菩薩には、四種の正しい修行の功徳が成就されている。よく知るべきである>と述べられている。真如がすべてのものの本当のすがたである。この真如にかなって修行すれば、それはとらわれを離れた修行である。とらわれを離れて修行するのを、真実にかなった修行というのである。浄土の菩薩の修行はこの唯一絶対の在り方においてなされるものであるが、意味の上で四つに分ける。このようなわけで、四種の修行を一つにまとめて正しい修行というのである。

 『浄土論』に、<その四種とは何か。一つには、菩薩は一つの世界にいながら、その身を動かさずに、すべての世界にさまざまなすがたを現し、真実にかなった修行をして、常に衆生救済のはたらきをする。願生偈に、«安楽国は清らかであって、煩悩の汚れのない仏の教えが常に説かれる。化身の仏や菩薩は太陽のようであり、また須弥山にたもたれているようである»といっている。すべての衆生の煩悩の泥の中に蓮の花を開くからである>と述べられている。八地以上の菩薩は、常に三昧の境地にあり、その三昧の力によって、身はもとのところから動かないですべての世界に至り、仏がたを供養し、衆生を教え導く。<煩悩の汚れのない教え>とは仏のさとりの功徳である。仏のさとりの功徳には、煩悩やその習気もない。仏は多くの菩薩たちのために、常にこの教えを説かれる。多くの菩薩たちも、この教えによってすべての人々を教え導いてかたときも休むことがない。そこで<常に説かれる>というのである。法身は太陽のようであって、その化身は太陽の光のように多くの世界に広く行きわたる。<太陽>というだけでは不動ということをあらわすのに十分ではないから<須弥山にたもたれているようである>といったのである。<煩悩の泥の中に蓮の花を開く>とは、『維摩経』に<高原の乾いた陸地には蓮の花は生じないが、低い湿地の泥沼には蓮の花が生じる>と説かれている。これは、凡夫が煩悩の泥の中にあって、菩薩に教え導かれて、如来回向の信心の花を開くことができるのをたとえたのである。まことに菩薩は、仏・法・僧の三宝を次々と受け継いで広く盛んにし、絶えないようにされているのである。

 『浄土論』に、<二つには、菩薩の化身は、あらゆる時において、前後なく同時に、しかも一瞬のうちに、大いなる光明を放ってすべての世界に至り、衆生を教え導いて、さまざまな手だてを施し、行を修めて、すべての衆生の苦しみを除く。願生偈に、«身にそなわる汚れのない光が、一瞬のうちに、かつ同時に、広くさまざまな仏がたの説法の座を照らして、多くの衆生に利益を与える»といっている>と述べられている。さきに、菩薩は<身は動かないですべての世界に至る>といっているが、それだけでは至ることに前後があるとも考えられる。そこで<一瞬のうちに、同時に、前後なく>といわれるのである。

 『浄土論』に、<三つには、菩薩はあらゆる世界において、余すところなく仏がたの説法の座や大衆を照らして限りなく供養し敬い、仏がたの功徳をほめたたえる。願生偈に、«清らかな音楽や花や衣や香りなどによって供養し、仏がたの功徳をほめたたえるが、そこにわけへだての心はない»といっている>と述べられている。<余すところなく>とは、広くすべての世界、すべての仏がたの説法の座に至るのであって、一つの世界、一つの説法の座も至らないところはないことをいうのである。僧肇が<法身は一つのかたちに定まらないでさまざまなかたちを現し、さとりの声は一つの言葉に定まらないでさまざまな深い教えを行きわたらせ、さとりの心は一つの考えに定まらないでさまざまにはたらいて物事に対応する>というのはこのことである。

 『浄土論』に、<四つには、菩薩はすべての世界の、仏・法・僧の三宝のないところで、海のように大いなる三宝をたもち伝えてほめたたえ、真実にかなった修行を衆生に広く示してお教えになる。願生偈に、«どこか仏法の功徳のない世界があるのなら、わたしが行って、仏のように仏法を説き示そう»といっている>と述べられている。さきにあげた三つの菩薩のはたらきは、すべての世界に至るといってもすべて仏のおられる国である。もしこの第四のはたらきがなければ、法身も至らない世界があることになり、すぐれた善もまことの善とならない世界があることになるだろう。以上で、観行体相は終る。

 以下は、解義分の第四章である。浄入願心という。浄入願心というのは、『浄土論』に、<さきに、阿弥陀仏の国土にそなわる功徳の成就と、阿弥陀仏にそなわる功徳の成就と、浄土の菩薩にそなわる功徳の成就とを観ずることを説いた。この三種の功徳の成就は、法蔵菩薩の願心によるものでる。知るべきである>と述べられている。<知るべきである>とは、この三種の功徳の成就は、因位の四十八願などの清らかな願心によるものであり、その因位の願心が清らかであるから、結果として成就された功徳も清らかとなるのである。法蔵菩薩の因位の願心によって成就されたのであるから、因がないのではなく、また他の因によったのでもないことを知るべきである、という意味である。

 『浄土論』に、<略して一法句に収まると説く>と述べられている。さきに述べた国土にそなわる十七種の功徳と、阿弥陀仏にそなわる八種の功徳と、菩薩にそなわる四種の功徳とを広とし、それらが一法句に収まるのを略とする。どうして広と略とが互いに収まるのか。仏や菩薩がたには二種の法身がある。一つには法性法身であり、二つには方便法身である。法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわす。この二種の法身は、異なってはいるが分けることはできない。一つではあるが同じとすることはできない。このようなわけで、広と略とは互いに収まるのであり、法という言葉でまとめるのである。菩薩が、もしこの広略が互いに収まるということを知らなければ、自利利他のはたらきをすることはできない。

 『浄土論』に、<一法句とは清浄句である。清浄句とは真実の智慧・無為法身である>と述べられている。この三者は順次に互いに収まる。どのようなわけで一法句というのかといえば、清浄だからである。どのようなわけで清浄句というのかといえば、真実の智慧・無為法身だからである。真実の智慧とは、実相をさとった智慧である。実相は相がないから、真実の智慧は対象を分別して知るような知ではない。無為法身とは、法性の身である。法性は空であるから、法身には相がない。相がないから、あらゆる相となる。このようなわけで、如来や浄土の相は、そのまま法身なのである。対象を分別して知るような知ではないから、あらゆることを知る。このようなわけで、あらゆるものの実相を知り尽くす智慧が、真実の智慧なのである。真実という言葉で智慧を表わすのは、智慧がはたらくものでもなく、はたらかないものでもないことを明らかにしているのである。無為という言葉で法身を表すのは、法身はかたちのあるものでもなく、かたちのないものでもないことを明らかにしているのである。否定を否定するとき、どうして否定を否定することが肯定することと同じであるといえようか。思うに、否定することがないということが肯定なのである。それはもとより肯定なのであって、肯定が否定に対しているわけではない。肯定も否定でもなく、どこまで否定を重ねてもたとえられるものではない。このようなわけで清浄句といったのである。清浄句とは真実の智慧・無為法身である。

 『浄土論』に、<この清浄に二種がある。知るべきである>と述べられている。さきに一法句と清浄句と真実の智慧・無為法身の三者が互いに収まることについて、一法句は清浄句に収まり、清浄句は無為法身に収まるといった。いまこの清浄を二種に分けて示そうとするから、<知るべきである>というのである。

 『浄土論』に、<二種とは何かというと、一つには器世間清浄であり、二つには衆生世間清浄である。器世間清浄とは、さきに説いた国土にそなわる十七種の功徳の成就のことをいうのである。衆生世間清浄とは、さきに説いた仏にそなわる八種の功徳の成就と、菩薩にそなわる四種の功徳の成就のこをいうのである。このように一法句に二種の清浄の意義が収まっていると知るべきである>と述べられている。そもそも衆生とは、それぞれの行いの果報としてある主体であり、国土とは、共通の行いの果報として用いるものである。主体と用いるものとは一つではない。そこで<知るべきである>というのである。しかし浄土のものはすべて、さとりの世界として願心によって成就されたものである。衆生と国土とは異なるものではなく、一つなのである。意義によって分けるが、異なるわけではない。同じく清浄なのである。器とは用いるものの意である。浄土は清浄な衆生が用いる国土であるから器というのである。清らかな食べものを清らかでない器に盛ると、食べものも清らかでなくなる。清らかでない食べものを清らかな器に盛ると、器も清らかでなくなる。食べものと器の両方が清らかではじめて清らかであるといえる。だから清浄という言葉には、必ず器世間清浄と衆生世間清浄との二種が収まるのである。

 問うていう。衆生世間清浄といったのは仏と菩薩についてである。浄土に往生する人間や神々もこの清浄の衆生の中に入るのであろうか。

 答えていう。清浄ということはできるが、本当の清浄ではない。たとえば、出家した聖者は煩悩を滅しているから比丘といわれるが、まだ煩悩を滅していない凡夫が出家しても比丘といわれるようなものである。また転輪聖王の王子は、生れた時に三十二相をそなえ七宝を持っている。まだ転輪聖王の仕事をすることはできないが、転輪聖王といわれるようなものである。それは必ず転輪聖王となるからである。浄土に往生する人間や神々もその通りであって、みな大乗の正定聚に入ってついには清浄法身を得ることができる。だから清浄ということができるのである。

 善巧摂化というのは、『浄土論』に、<このような菩薩は、止観、すなわち思いを止め静かな心で浄土の広略を観察する行を修め、とらわれのない心を得ているのである>と述べられている。<とらわれのない心>とは、広と略の止観がそれぞれ相応し、この行を修めて、観ずる心と観じられる実相とが区別できない一つのものとなったことをいうのである。たとえば、水にものの姿を映すとき、水の清らかさと静かさとの両方がそろって、はじめて姿が映るようなものである。

 『浄土論』に、<真実にかなって広略のすべてを知る>と述べられている。<真実にかなって知る>とは、実相のままに知ることである。広の国土・仏・菩薩にそなわる二十九種の功徳も、略の一法句も、すべて実相なのである。

 『浄土論』に、<このように善巧方便の回向を成就するのである>と述べられている。<このように>とは、さきに示した広も後に示した略もみな実相であり、その実相のままにということである。実相を知るから、迷いの世界の衆生の虚妄のすがたを知る。衆生の虚妄のすがたを知るから、これを救おうする真実の慈悲をおこす。実相すなわち真実の法身を知るということは、さとりを求める真実の帰依をおこすということである。その慈悲と帰依と善巧方便とは、以下に示されている。

 『浄土論』に、<菩薩の善巧方便の回向とはどのようなことであろうか。菩薩の善巧方便の回向とは、礼拝などの五念門の行を修めることを説いたが、その行を修めて得られたすべての善根功徳によって、菩薩は、自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、その功徳によって、すべての衆生の苦しみを除こうと思うことである。これを菩薩の善巧方便の回向の成就というのである>と述べられている。王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな無上菩提心をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心は、そのまま度衆生心である。度衆生心とは、衆生を摂め取って、阿弥陀仏の浄土に生れさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生れようと願う人は、必ず無上菩提心をおこさなければならない。この無上菩提心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪るために浄土に生れたいと願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀仏の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。

 総じて、<回向>という言葉の意味を解釈すると、自ら積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである。<善巧方便>とは次のようなことである。菩薩が自分の智慧の火ですべての衆生の煩悩の草木を焼こうとし、もし一人でも成仏しないようなことがあれば、自分は仏になるまいと願う。ところが、すべての衆生が成仏したわけではないのに、菩薩自身がさきに成仏してしまう。それはたとえば、木の火ばしですべての草木を掴み集めて焼き尽くそうとしたところ、草木がまだ焼けきらないうちに、木の火ばし自体がさきに焼けてしまうようなものである。自身を後にと願いながら、他の衆生よりもさきに成仏してしまうから、善巧方便というのである。いまここに<方便>というのは、願をおこしたすべての衆生を摂め取り、みなともに浄土に生れさせることである。阿弥陀仏の浄土は、仏となる究極の道であり、この上なくすぐれた手だてなのである。

 障菩提門というのは、『浄土論』に、<菩薩はこのように善巧方便の回向の成就を知ると、すなわちさとりへの道をさまたげる三種の心を遠く離れる。三種の心を遠く離れるとはどのようなことであろうか。一つには、智慧によって、自らの楽しみを求めず、自分自身に執着する心を遠く離れることである>と述べられている。さとりに向かって進むことを知り、そこから退かないようにするのを<智>といい、空・無我の道理を知るのを<慧>という。智によるから自らの楽しみを求めず、慧によるから自分自身に執着する心を遠く離れるのである。

 また『浄土論』に、<二つには、慈悲によって、すべての衆生の苦しみを除き、衆生を安らかにすることのない心を遠く離れることである>と述べられている。苦しみを除くのを<慈>といい、楽しみを与えるのを<悲>という。慈によるからすべての衆生の苦しみを除き、悲によるからすべての衆生を安らかにすることのない心を遠く離れるのである。

 また『浄土論』に、<三つには、方便によって、すべての衆生を哀れむ心をおこし、自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れることである>と述べられている。かたよりなく平等であるのを<方>といい、自らのことを顧みないのを<便>というのである。かたよりなく平等であるから、すべての衆生を哀れむ心をおこし、自らのことを顧みないから、自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるのである。『浄土論』に、<このことを、さとりへの道をさまたげる三種の心を遠く離れるというのである>と述べられている。

 順菩提門というのは、『浄土論』に、<菩薩はこのようなさとりへの道をさまたげる三種の心を遠く離れて、さとりへの道にかなった三種の心をまどかにそなえることができる。三種とは何かというと、一つには、煩悩の汚れのない清らかな心である。これは自分自身のためにさまざまな楽しみを求めないことである>と述べられている。仏のさとりというのは、煩悩の汚れのない清らかな境地である。自分自身のために楽しみを求めるなら、それはさとりに背くであろう。このようなわけで、煩悩の汚れのない清らかな心はさとりへの道にかなうのである。

 また『浄土論』に、<二つには、衆生を安らかにする清らかな心である。これはすべての衆生の苦しみを除くことである>と述べられている。仏のさとりというのはすべての衆生を安らかでおだやかにする清らかな境地である。すべての衆生を救って迷いの苦しみを離れさせようと努めないなら、それはさとりに背くであろう。このようなわけで、すべての衆生の苦しみを除くのはさとりへの道にかなうのである。

 また『浄土論』に、<三つには、衆生に楽しみを与える清らかな心である。これはすべての衆生に大いなるさとりを得させる心である。また、衆生を摂め取って阿弥陀仏の浄土に生れさせることである>と述べられている。さとりというのは、決して変ることのない究極の楽しみの境地である。すべての衆生に決して変ることのない究極の楽しみを得させないなら、それはさとりに背くであろう。この決して変ることのない究極の楽しみは何よって得るのかといえば、大乗の法門によるのである。その大乗の法門とは、すなわち阿弥陀仏の浄土をいうのである。このようなわけで、また<衆生を摂め取って阿弥陀仏の浄土に生れさせることである>と述べられたのである。『浄土論』に、<このことを、さとりへの道にかなった三種の心をまどかにそなえたというのである。よく知るがよい>と述べられている。

 名義摂対というのは、『浄土論』に、<さきに説いた智慧・慈悲・方便の三種の法門は般若をおさめ、般若は方便をおさめる。知るべきである>と述べられている。<般若>とは平等の一如に達する慧をいい、<方便>とはそれぞれの異なった相に通じる智をいうのである。一如に達すれば、心のはたらきが滅する。それぞれの異なった相に通じれば、あらゆる衆生のあり方をはっきりと知る。あらゆる衆生のあり方をはっきりと知る智はすべてに応じ、しかも無知である。また心のはたらきが滅した慧は、無知であって、しかもあらゆる衆生のあり方をはっきりと知る。だから、般若と方便とは互いに縁となって動であり、互いに縁となって静である。動でありながらしかも静を失わないのは、般若の徳であり、静でありながらしかも動を失わないのは、方便の力である。そこで、智慧と慈悲と方便とは般若をおさめ、般若は方便をおさめるのである。<知るべきである>とは、般若と方便とは菩薩の父母であって、般若と方便とによらないなら、菩薩の行が成就しないと知るべきであるということである。なぜかというと、般若によることなく衆生救済にはたらけば、迷いに落ちてしまう。方便によることなく一如を観ずるなら、自分だけのさとりの境地に安住してしまう。このようなわけで、<知るべきである>というのである。

 『浄土論』に、<さきに、自分自身に執着する心を遠く離れ、衆生を安らかにすることのない心を遠く離れ、自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるということを説いた。この三つが、さとりへの道をさまたげる心を遠く離れることなのである。知るべきである>と述べられている。すべてのものにはそれぞれさまたげがある。たとえば風は静けさをさまたげ、土は水の流れをさまたげ、湿気は火をさまたげ、五逆・十悪の罪は人間や神々として生れることをさまたげ、四顛倒は声聞のさとりをさまたげるようなものである。ここにあげた三種の心を遠く離れないなら、さとりへの道をさまたげることになる。<知るべきである>とは、さとりへの道にさまたげのないことを得ようと思うなら、このさまたげとなる三種の心を遠く離れなければならないということである。

 『浄土論』に、<さきに、煩悩の汚れのない清らかな心、衆生を安らかにする清らかな心、衆生に楽しみを与える清らかな心を説いた。この三種の心は、まとまってただ一つの妙楽勝真心を成就する。知るべきである>と述べられている。<楽>に三種がある。一つには外楽、すなわち五識による楽しみである。二つには内楽、すなわち禅・第二禅・第三禅の禅定の意識による楽しみである。三つには法楽楽、すなわちさとりの智慧による楽しみである。この智慧による楽しみは、阿弥陀仏の功徳を願い求めることからおこるのである。自分自身に執着する心を遠く離れ、衆生を安らかにすることのない心を遠く離れ、自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるという、この三つが清らかに進展して一つの妙楽勝真心となる。妙とは、よいという意味である。この楽は阿弥陀仏を縁としておこるからである。勝とは、迷いの世界の楽しみに超えすぐれていることである。真とは、いつわりでなく真実にかなっていることをいうのである。

 願事成就というのは、『浄土論』に、<このように菩薩は、般若・方便・無障・妙楽勝真という四つの心により、阿弥陀仏の浄土に往生させていただくのである。知るべきである>と述べられている。<知るべきである>とは、この四種の心の清らかな功徳により、阿弥陀仏の浄土に往生できるのであって、他の功徳により往生するのではないことを知るべきであるというのである。

 『浄土論』に、<これを、菩薩が五念門にかなって、自由自在に自利利他の行いができるようになるというのである。さきに説いたように、身業・口業・意業・智業・方便智業が五念門にかなっているからである>と述べられている。<自由自在に>とは、この五念門の功徳の力は、阿弥陀仏の浄土に往生させ、またあらゆる世界にすがたを現すことが自由自在であるようにさせることをいうのである。<身業>とは礼拝である。<口業>とは讃嘆である。<意業>とは作願である。<智業>とは観察である。<方便智業>とは回向である。この五種の行いがととのうのを、往生浄土の法門にかなって、自由自在に自利利他の行いができるようになるというのである。

 利行満足というのは、『浄土論』に、<また五種の法門があって、五種の功徳を成就することを知るべきである。五種の法門とは何かというと、一つには近門、二つには大会衆門、三つには宅門、四つには屋門、五つには園林遊戯地門である>と述べられている。この五種の法門は、浄土へ入ってさとりを開くという自利の入の相と、浄土から出て衆生をさとりへ導くという利他の出の相とを、順次に説き示したものである。入の相の中、まず浄土に生れるのは近門の相である。つまり大乗の正定聚に入ると、さとりに近づくのである。浄土に生れると、そこで阿弥陀仏の大会衆の中に入る。大会衆の中に入れば、安らかに修行できる住い、すなわち宅に至るであろう。その宅に入れば、まさにその屋内で修行を積むに至るであろう。そこで修行が成就すれば、思いのままに衆生を教え導く位に至るのである。この位は、すなわち衆生を教え導くことを菩薩自らの楽しみとする位である。このようなわけで、出の法門を園林遊戯地門というのである。

 『浄土論』に、<この五種の法門は、はじめの四種の法門は入の功徳を成就し、第五の法門は出の功徳を成就するのである>と述べられている。この入出の功徳とはどのようなものであろうか。

 これについて『浄土論』に、<入の第一門とは、阿弥陀仏を礼拝し、すなわち本願のはたらきにより阿弥陀仏の国に生れようとするから、浄土に生れさせてくださる。これを入の第一門という>と述べられている。阿弥陀仏を礼拝して浄土に生れようと願うのである。これが第一の功徳の相である。

 『浄土論』に、<入の第二門とは、阿弥陀仏をほめたたえ、名号のいわれにかなって如来の名号を称えさせていただき、すなわち如来の光明という智慧の相によって行を修めるから、大会衆の中に入らせてくださる。これを入の第二門という>と述べられている。阿弥陀仏の名号のいわれにかなってほめたたえるのである。これが第二の功徳の相である。

 『浄土論』に、<入の第三門とは、一心にもっぱら作願して阿弥陀仏の浄土に生れ、すなわち思いをやめ心を静める行を修めるから、蓮華蔵世界に入らせてくださる。これを入の第三門という>と述べられている。心を静める行を修めるために一心に浄土に生れようと願うのである。これが第三の功徳の相である。

 『浄土論』に、<入の第四門とは、浄土のすぐれたすがたをもっぱら観察し、すなわちそのすぐれた観察の行を修めさせていただくから、浄土に往生してさまざまな法を味わう楽しみを受けさせてくださる。これを入の第四門という>と述べられている。<さまざまな楽しみ>とは、観察の行の中に、仏とその国土の清らかなことを観ずる楽しみ、衆生を救い大乗のさとりを開かせることを観ずる楽しみ、阿弥陀仏の本願力がいつわりでなく変らずにはたらき続けることを観ずる楽しみ、菩薩が衆生に応じて行を修め仏とその国土を示して衆生を救うことと観ずる楽しみなどがあり、このように数限りない法を味わう楽しみが浄土にそなわっているから、さまざまな楽しみというのである。これが第四の功徳の相である。

 『浄土論』に、<出の第五門とは、大慈悲の心をもって、苦しみ悩むすべての衆生を観じて、衆生を救うためのさまざまなすがたを現し、煩悩に満ちた迷いの世界に還ってきて、神通力をもって思いのままに衆生を教え導く位に至ることである。このようなはたらきは阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。これを出の第五門という>と述べられている。<救うためのさまざまなすがたを現す>とは、『法華経』の普門品に、観音菩薩が衆生を救うためにさまざまなすがたを現すことが説かれているようなものである。<思いのままに>というのには二つの意味がある。一つには自由自在という意味である。浄土の菩薩が衆生を救うのは、たとえば獅子がいともたやすく鹿を捕えるようなものであり、それは自由自在なのである。二つには衆生を救いながらも救うというとらわれがないという意味である。浄土の菩薩が衆生を観ずるとき、実体があるとみるのではない。数限りない衆生を救いながら、一人としてさとりを得させたというとらわれがない。衆生を救うはたらきをあらわすことに、とらわれがないのである。<本願力>とは、八地以上の菩薩が平等法身のさとりの中において、常に禅定にあって、さまざまなすがたを現し、さまざまな神通力をあらわし、さまざまな説法をするのであるが、これらはみな阿弥陀仏の本願力によるものであることをいう。たとえば阿修羅の琴は弾くものがいなくても自然に調べを奏でるようなものである。これを思いのままに衆生を教え導く第五の功徳の相というのである」


(18)

 以上のことから、釈尊の真実の仰せにより知ることができた。この上ないさとりを得ることは、阿弥陀仏の本願力の回向によるのであり、還相のはたらきを恵まれることは、阿弥陀仏が衆生を救おうとされる本意をあらわしているのである。こういうわけであるから、天親菩薩は、何ものにもさまたげられない広大な功徳をそなえた一心をあらわして、娑婆世界にあって煩悩にけがされている衆生を教え導いてくださり、曇鸞大師は、往相も還相もみな阿弥陀仏の大いなる慈悲による回向であることをあらわして、他利と利他の違いを通して他力の深い教えを詳しく説き広めてくださった。仰いで承るべきであり、つつしんでいただくべきである。