「一切世間難信の法」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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世間の道理とは、いわゆる仏教でいう自己責任である自因自果の「因願の道理」を指す。御開山の示された浄土真宗は、この因果の道理を超越した法門であるから、一切世間難信の法ともいふ。なお、大乗経典にには「難信の法」という語が使われることが多いのだが、それは説かれている法門が他と超絶しているという意味で、難信とされるのであった。これを法の尊高をあらわすといふ。 | 世間の道理とは、いわゆる仏教でいう自己責任である自因自果の「因願の道理」を指す。御開山の示された浄土真宗は、この因果の道理を超越した法門であるから、一切世間難信の法ともいふ。なお、大乗経典にには「難信の法」という語が使われることが多いのだが、それは説かれている法門が他と超絶しているという意味で、難信とされるのであった。これを法の尊高をあらわすといふ。 | ||
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2017年12月8日 (金) 22:35時点における最新版
いっさいせけん なんしんのほう
『小経』 の教説は、世間の道理を超越しているから、はなはだ信じ難いということ。 それはまたこの教説の尊高をあらわしている。 (法事讃 P.574)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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世間の道理とは、いわゆる仏教でいう自己責任である自因自果の「因願の道理」を指す。御開山の示された浄土真宗は、この因果の道理を超越した法門であるから、一切世間難信の法ともいふ。なお、大乗経典にには「難信の法」という語が使われることが多いのだが、それは説かれている法門が他と超絶しているという意味で、難信とされるのであった。これを法の尊高をあらわすといふ。